2008/03/01

自己信頼に向けて

 先日、親戚のおばあさん(94才、天寿をまっとうしたと思います)のお葬式があり参列しましたが、故人の孫夫婦が生まれて間もない(2ヶ月半)赤ちゃんを連れて来ていました。若い父、母が交替でだっこしながらでした。久しぶりに小さな赤ちゃんに出会いましたが、こちらに向ける純心な目、すやすやと眠る
寝顔、そして、あやすと、にっこりとする笑顔、本当に無垢な天使のようでした。

 でも関わっている青年たち、不安や怒りや絶望感を抱いている青年たちを思い浮かべ、「だれでもこういう時があったのだ」と思うと涙がにじんで来ました。親も生まれた子を「可愛い、可愛い」と思ったでしょうし、そう思いながら育てたでしょうが、いつから、子供と親のずれが生じ、「可愛い」だけではなくなったのでしょう。そして、今の、子の苦しみ、親の苦しみになったのでしょう。
 それぞれの親子の場合によって違うでしょうが、親の話を聞くと、思い当る所がある、という方もいるし、余り思い当ることがなく、「どうして?」「まさかこうなるとは?」と思ってる方もいます。子供が心のことを話さないため、なぜ、人の中にはいれないのか、なぜ働こうとしないのか、分からなく、どう子供と関わったらいいかどう声をかけていいか、そしてどう手助けしていいか分からない――という親の苦悩がある一方、親に激しい言葉で責める、怒りをぶつける、でも親としても理解し、受けとめるよう努力しても、どうしようもないことをぶつけられることが続く。或いは、親と子の気持ちが殆んど断絶し、お互いに憎しみを感じてしまう、という場合もあります。

 子供が親に激しい怒りを感じたり、親に激しく当ったりする――という場合は、親が子供が幼い時(小学生位まで)親が非常に厳しかったり、父親が子供に暴言、暴力を振ったり(母親が助けてくれない)、の上に、学校でのいじめが加わった、ということがあるようです。まわりの大人は自分の苦しみを分かってくれない、誰も助けてくれない、強い人間不信が生じ、そして自分は、そうされるようなダメな人間なのだ、という自己否定感を抱きながら、大人になって行く。そういう強い対人恐怖、傷つき易さを感じながらでは、人との交わりや働く、という場には、出る勇気が持てないのだと思います。
 苦しみを抱えながらも、頑張って生きて来た自分を、「もっと認めて上げてもいいのでは?」と言っても、「それはできない」と答えます。

 心理学、心理療法では、まず『慈愛願望欲求』が満たされて始めて『自己信頼欲求』が満たされる、その上で『慈愛欲求』が満たされる、と言われます。
 子供の頃に「人から認められたい、愛されたい、
大事にされたい」など『慈愛願望欲求』が満たされることが土台になって「自分を認めたい、愛したい、信じたい、好きになりたい、成長させたい」という『自己信頼欲求』が生じる、それが満たされて行く過程が精神的自立だと思います。土台がなければ「自分は自分」「自分が好き」というような精神的自立を形成されにくい。子供の頃、親が「無条件に愛する」ということは、みんながそんなに十分にはできないでしょうが、まわりの人たちが(近所の人、学校の仲間、教師など)補ったと思います。でも、そういう補いもないまま大人になってしまった、人間不信を何年も抱いてきた青年に対し、もう一度『慈愛願望欲求』を満たして上げるのは非常に難しいことだと思います。10代位まででしたら、親が理解し、受けとめて上げ、抱きしめることもできるでしょうが。

 では、どうしたらいいのでしょう。一つには、自分にとって『師匠』である人を見つけることかと思います。その人の考え方、生き方に共感できるような人。身近かにはなかなか見つからないでしょうが、昔の人でもいいし、世界の偉人、本などで描かれているような人、或いはフィクション(小説、映画など)の中の人、ユニークな人など一人に「これだ!」というのでもなくても、複数の人でもいいと思います。その人が自分を認めてくれるような感覚、その人の生き方が自分も一部でもできそうだ、その人の考え方が自分を楽にしてくれる。と思えるような人に出会えれば、と思います。そして、価値観の多様性を感じることができれば、と思います。
 私も、母が心配性で支配的であったので、親に無条件に受け入れてもらってなかったことから、コンプレックスが思春期から強く、今だに傷つき易く、動揺し易い面がありますが、何とか社会生活を送ることができたのは、社会がゆったりしていて、親しい友だち、信頼できる友だちができたから、そして、本を読むのが好きで、(小説、エッセイ、その他)その中で、共感したり癒されたりすることができたからか、と思います。(若い時は太宰治、中年は宮沢賢治、ここ数年では「老子」がそうでした)、また映画が好きなのも、色々な生き方をしている人に共感する、それは、その人たちから自分を認めてくれているような感じもして、癒されるからかもしれません。
 どんな生き方をしてもいい、失敗してもいい、全部の人が自分を認めてくれる筈はないが、でも自分を認めてくれる人がいる(身近かに接する人がそうであれば一番いいですが、そうでない人でも)と思えれば、自分を自分で認められるようになるかもしれません。

 もう一つは、好きなこと、楽しいことをできるだけやって行く。楽しいことをしている時は、自分を愛している気持ちと重なります。それをできるだけ多くやっていけば、楽しい時だけでなくても、自分を愛し、認める気持ちを感じることが少しずつでもできて行くように思います。
(参考文献 宗像恒次監修『SAT法を学ぶ 』金子書房 2007年)

和田 ミトリ