2008/12/01

母の一生と時代の流れ

 今年も、もう12月を迎えました。この会報を何とか毎月欠かさず発行できてほっとしているところです。毎月、ぎりぎりになるまで、私が書く文のテーマが決まらず、発行するのが、どうしても4日、5日頃になってしまいます。でも、切羽つまると、何らかのテーマ、書きたいことが浮かんで来るのは不思議です。

 12月は?――と思った時、特に皆さんにお伝えしたことは浮かばなかったのですが、ふと母が亡くなったことは、私にとって大きなことではなかったか、と思いました。個人的なことではありますが、11月に97才で亡くなった母は、明治、大正、昭和、平成と生きて、時代の流れと共に生きたとも言えるし、私も母によって大きく影響された面もありますし、そうしたことをたどり、考えるのもよいかと思いました。

 母は明治の終わり近く(43年)に生まれ、大正の終わりから昭和にかけて女学校で優等生として過ごしました。学校制度が充実して来た頃で、福島県の田舎町にも女学校ができて、その一期生でした。でも母は「町に女学校ができなかったら都会の女学校に行けたのに(その能力はあったのに)」と高齢になっても言い、田舎の女学校を出たことにコンプレックスを感じていました。

 明治から大正にかけて、日本を欧米なみにするために学校教育の充実を急速に行い、学校、勉強を重視した面もあり、母もその影響を受けたものと思われます。

 また、明治、大正と昭和の終戦まで家族制度があり、親、年長者を敬うべき、という社会風土がありました。母は大ぜいの兄弟の長女であり、親に認められるためには、親の言うことを聞き、親を助けることだ、と思ったようで、「親は絶対だ」という価値観を持ちました。

 でも、戦後民主主義となり、私は民主主義の教育を受けました。私は「親は絶対だ」とは思えないし、親思いの親の言うことを素直に聞けない(と言ってもはっきり言葉で自己表現もできない)、母にとって「いい子」にはなれませんでした。母は性格的に完ぺき主義のところがあって、私はのんびりして、ぼーっとしたところがあり、私と合わなかった。厳しくしつけるというより、過保護、過干渉でそれが私には圧迫感であり、いつも「ダメだ、ダメだ」と言われてるようで、思春期頃から強いコンプレックスを持つようになりました。

 そして昭和から平成にかけて、時代の流れは変わって行きましたが、母は余り影響を受けなかったと思います。(例えば、男性が赤やピンクの服を着るのはおかしい――というような)

 20年ほど前に同居しましたが、“親は絶対”という価値観、期待に私は応えられず、母の不満は大きく、葛藤がありました。また母は向学心があり茶道の先生にっていて人に認められたい気持ちが強かったのが、老いて来て、お茶も教えられなくなり、そういう面でも満たされず、私に当ったかもしれません。

 でも父が寝たきりになった後は、献身的に介護しました。亡くなった後、「お父さんを十分みて上げられなかった。それはミドリが、家事の方を全部やってくれなかったからだ」と一時期私を責めましたが、間もなく「教会に行く」と言い(「仏教の信仰はそのままでいい」と牧師さんに言われました)、介護保険制度ができてからは、「デイサービスに行く」と自分から言いました。そして2年前には「老人ホームにはいる」と言い、父の死後、私にばかり求めない、賢明な選択をしてくれました。

 老人ホーム(グループホーム)にはいってからは少しずつ思考力も衰えて行き、私やまわりに対する不満も少なくなって行きました。(物理的にも遠くなり、接する時間も少なくなり、私にとって、少しずつ、離れた存在になりました)ホームの生活を“楽しむ”というほどではありませんでしたが、なじんで行き、穏やかな生活になったようです。

 そして9月末に肺炎になって入院し、すぐ、呼吸困難になり、危篤、と言われましたが、一時持ち直し、簡単な話ができるようになりました。でも医者の言うように、じわじわと弱って行き、呼びかけや手を握った時の反応が少なくなり、そして全くなくなり41日目に静かに息をひきとりました。

 最後の方に「今までの人生をどう思う?」というような話はできませんでしたが、母はそういうことは考えなくなっていたでしょう。ただ、亡くなる20日前に娘が父(夫)と母の母の写真を見せた時、何も言いませんでしたが、(言えなくなっていた)目尻に涙が一粒浮かんだように見えました。父の死後「早くお父さんの所に行きたい」と言っていましたので、父のもとにもうすぐ行くことを感じていたかもしれません。

 このように母の一生を簡単にたどりましたが、人の一生はもっともっと大きく、短く語れるものではないでしょう。

 私にとって母はどういう存在だったのか…

 良くも悪くも大きな存在、大きな影響を与えたものと思います。父とともに好奇心、向学心があり、伝統芸術に関心があったことは、私にも興味の広がりを与えてくれたと思います。

 でもまた、ある時友だちが「母はいつも私の味方になってくれる」と言ったのですが、私は「責められる相手」だと思いました。身近に暮らしていた時は圧迫感がありました。でも最後の方は、母は明晰でなくなっただけ、穏やかになり、私も穏やかに接することができ、静かな気持ちで母を見送ることができました。

 母は母なりに自分の価値観を通しながら一生懸命生きたと思います。

 時代のずれ(27年間ずれて)や性格の違いなどが、私たちの間に葛藤をもたらしたと思いますが、同じ故郷に生まれ育ちました。母がこの世を去る時、そこへ戻る夢を見たのではと思われるように、私も何年か先にそんな時、故郷の夢を見ながら…という時が訪れるかと思います。

 こんなふうに母のことを書いて来て、目の奥が痛み、涙がにじみます。

和田 ミトリ

2008/11/01

理解する――ということ

 「人間って理解できたことに基づいて生きるんじゃなくて、実は理解できないことを中心に生きているのだと思う」という言葉に出会い、はっとしました。(これは人に対してというより物事に対して言ってるのですが)

 私たちは相手に対し「分かって!分かって!」と言うことが多い。親しい間柄――親子、夫婦、恋人、友だちなどの間で、お互いに全部を理解し理解されることを求めてしまう。

 全部を「分かって!」と思えば思うほど、がっかりして相手に失望し、相手への怒りにもなってしまう…こともあるのではないでしょうか。

 人それぞれ性格も気質も違うし、それまでの体験も違うわけですから、全部理解できる筈はない。親子、夫婦、恋人、友だち、そしてクライエントとカウンセラーの間でも全部は理解できない、ほんの一部しか理解し合えない――という前提にした時、「分かって貰えない」不満よりも「分かってくれた」という喜びを感じるのではないでしょうか。

           自分は、人は一つではない

 そして、人はお互いに理解できないことが多い――というのは、人は多面性を持っている、ということであり、また、たえず変わる、変わるのが自然だ(以前、“無常”ということを書きました)ということでもあると言えます。

 人には、色々な面があり、性格も一つではない、考え方も一つではない。割と親しい人の中に「あれ?」と思うような面を見ることはないでしょうか。その場に合わせて違う面が出せた方がいいとも思いますし一貫性を求めすぎない方がいいかも知れません。余りにその人に一つのものを求めた時、失望したり、裏切られた、と思うことになるでしょう。

 親の虐待や学校でのいじめにあったりすると、そうされないように完ぺきにやらなければと頑張り、完ぺき主義になりがちです。そして相手にも完ぺきを求めたり、黒白はっきりさせたい、となりがちです。それはとてもしんどいことではないでしょうか。

 人は、人生は黒白はっきりできないことが多い、グレーゾーンの部分が多いし、曖昧なことが多いと思います。

 自分も人も一つではなく、色々な面があり、曖昧なものが多く、お互いに全てを理解することはできない、そして自分も人も失敗をよくする、生きることは不条理なことが多い――ということを受け入れて、もう少し気持ちを楽に生きられたらと思います。

 でもまた、ひと時でも人とのつながりを感じ、人と通じ合うことを体験し、少しの時間でも安らぎとか喜び、感動を感じる(それは求めなければ得られないでしょう)、生きることはそんなに悪いことばかりではない――と思いながら日々過ごせたら、と思うこの頃です。(参考文献、「14才の子を持つ親たちへ」内田樹、名越康文著、新潮新書)

和田 ミトリ

2008/10/01

アサーション・コミュニケーションの大切さ

 9月も終わりになってぐっと涼しくなり、秋を感じるようになりました。毎日、様々なことがありますが、過ぎてしまうと「もう1ヶ月たったのか!」と時が早く流れるのを感じます。
 
 青年の集いのテーマに「アサーション」としている日がありますが、私自身が若い頃から自己表現・自己主張ができず、一番の悩みでしたし、カウンセリングを学びながら、一層、その大切さを感じました。そして、日本ではその大切さが認識されず、社会に出にくい青年たちの悩みであることに気づきました。
 自己表現・自己主張できず、自分を抑えながら相手に合わせながら過ごすのは、自分を生きている感じがしなく、ストレスを感じます。
 生き辛さの一番の元は、人間関係であり、人に受け入れられるか、うまくつき合えるか、人によく思われるか、認められるか、傷つき体験もありそれが否定的に感じる時、生きるのが辛くなるのではないでしょうか。認められない自分、認められない存在…そして職場での人間関係の厳しさを感じ、働くことの不安を強くします。働くことの大変さは、仕事そのものより、人間関係の厳しさをイメージすることが多いのではないでしょうか。
 そして人間関係を築くのは、主として、言語的コミュニケーションだと思います。日本人はアサーション、コミュニケーションが下手です。そのために率直に思いを話せずお互いの理解が不十分になりがちです。私たちは、アサーション(攻撃的でもなく、非主張的でもなく、自分も相手も大切にしながら、自分の思いをできるだけ相手に伝わるように伝える)もコミュニケーションも、そんなに大切に思わずに子供の頃から身につくようには育てられていない、活発な子は自分から表現しますが、大人しい子は、表現しないまま、見過ごされてしまう。
 
 伝統的な日本文化では「相手の気持ちを察し、自分の感情を抑えて、まわりに協調して行くことがよりよく生きる知恵」とされて来ました。そこでは、目上の人の言動に従い、まわりの人に合わせることで、仲間として守られる――という面がありました。
 でも、時代が大きく変化し、工業化社会、情報化社会となり、変化について行くには、多様性の中で自ら判断しなければならず、また、競争社会では人は、仲間というより、競争相手であり、守り育てる意識はなくなっている。でもまた、「みなと同じように、同じなのがいい」という意識は続いており、変わった子や、ゆっくりな子や、察しができない子ははじかれ、中学、高校などではそうした子が、いやと言えないままいじめの対象になったりします。お互いの違いが認められず、いじめが起こる。OLの間でも「KY」という言葉がはやり、仲間はずれを作ったりしています。
 私のことで言えば、母は「子供は親の言うことを聞くもの」という価値観を持ち、でも私は戦後の民主主義で育ち、「そうは思えない」と思いながらもはっきり言えず、他の場でも自分の思いを表現できずに、表現すること、判断することに自信を持てませんでした。(一人っ子ということもあり、又、母の性格で過保護ということもあり、私に対して先まわりばかりして、私に任せないことがあって、判断力や社会性、気配りが育てられなかったという面もあります)。
 
 「青年の思い」の所で、青年たちも言っているように、今も日本は「察する」ことを求められる世の中です。また「不登校」ということも言いづらい、それぞれの違いが認められない社会です。欧米やオーストラリアなど外国へ行くと、皆、それぞれの思いを率直に話をして、「違って当たり前」という雰囲気があり、気楽に話せ、気楽に過ごせる、と聞きます。
 伝統的な文化、風習が根強くありながら、同時に個人の判断力や自己主張も求められ、それがないと生きのびられないような日本の社会かもしれません。
 コミュニケーションも日本人は苦手ですが、それは「察し合う」のではなく、主として言葉のやりとり(表現、仕草、など非言語も含まれますが)の中で、お互いを理解し合う(背後にある感情も理解しながら)。仕事などでは、コミュニケーション能力はお互いの共通点や差異を理解しながら交渉し合える能力と言えるかもしれません。
 
 また、「コミュニケーションを楽しむ」という言葉がありますが、青年たちも趣味的な話の中でコミュニケーションを楽しんでいます。それはお互いに仲間として感じる、仲間として認め合えることであり、自信につなげられるし、表現力もつくことでしょう。私も青年たちとのコミュニケーションを楽しみ、心のことなど話し合う中で学ぶものが沢山あるのを感じています。
 

       ねぎらいのまなざしとことば

 コミュニケーションのもう少し積極的な意味で、「ねぎらいのまなざし」という言葉を姜尚中さんが言っているのを知り(「悩む力」の中で)、とても大切なことではないかと思いました。
 姜さんは、家族や深い関係(友人、恋人)とは違った社会の中でのつながり、特に仕事の場での「アテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)」が働くことの意味を与えている、と言ってるのですが、これは、家族などの中でもあっていいし、大切なことだと思います。子どもが小さい頃も、何か親が助かった、嬉しかったような時、「ありがとう」という意味の言葉とまなざしを向けることは、子どもは、自分の存在の意味を大きく感じるのではないでしょうか。「ねぎらいのまなざしと言葉」をお互いに向けながら育てば、大人になっても、自分の存在の意味を感じることができると思います。大人になってからでも遅くはないと思います。道草の家では青年の集いを終えて帰る時、「お疲れさま」と言い合いますが、一緒に集えたことを心をこめて感謝の気持ちを表したいものと思います。(家族でも…)

和田 ミトリ

2008/09/01

信州の旅

 先日、一泊旅行で長野の方に行って来ました。久しぶりに自然いっぱいの中を、戸隠、飯綱、黒姫の辺りを歩きました。戸隠神社の奥社に行く参道は両側に太さ、高さとも初めて見る、大きい杉の並木、何百年も変らずここに立っているのだという思い、また太い幹の皮は縦にすじが沢山はいっていて、はがれている所もあり、年々変っているのだと思い、そしてこの道を何百年も前から人々が通っているのだという思い、が浮かびました。木のにおい、緑の葉の風にすれる音、せせらぎの音、友だちは、「マイナスイオンがいっぱい」と言っていました。後半は、何百段?の石段、ここも、多くの人が登った所、息を切らしながら登り切りました。昔から、少し苦労して、たどりついたということに祈りを聞き入れてくれそうだと、感じたのではないか、と思いました。私も特に神社信仰はないのですが、お賽銭をあげて、お祈りをしました。「私が幸せでありますように」「生きとし生けるものが幸せでありますように」という言葉が浮かびました。(これは、本来は、神仏に祈る言葉ではなく自分の心に向けてのものですが)
 翌日は、一茶記念館を訪ねました。一茶には多少興味を持ってました。今は夏で、千葉と余り変らない気候ですが、冬は雪深く、記念館も12月~3月まで閉館です。一茶の一生と俳句に関するものが、展示されていましたが、子供の頃に知った「やれ打つな蝿が手をする足をする」という句もありました。また近くには墓と句碑があり、「是がまあつひの栖か雪五尺」の句碑を見て、晩年はこういうくらしと心境だったのだと感じました。そして「目出度さもちう位也おらが春」は、一茶の特徴、あるがままを尊重している、そして庶民的な感情「哀しい、楽しい、心屈したとき、心高揚したときの気持ち」を率直に表現しているようで好きな句です。200年位前の(1763~1827年)一茶の小さな動物や植物、子供たち、弱い者に気持ちを注ぐ人生と人々の生活がしのばれます。私たちが失ったものが、ここに生きていたのだと、痛感させられました。

和田 ミトリ

生きづらさ”をめぐって

 一茶が生きた時代、一茶の世界、小さき者、弱き者への愛を思うとき、今の日本社会の生き辛さを改めて感じます。多くの人、殆んどの人がますます生き辛くなって来ていることを感じているのではないでしょうか。特に若い人は、自分たちがそうした訳ではないのに、いつの間にか、生き辛い世の中に放り出されているのを感じ、無力感を感じてしまうのではないか、と思います。生きる意味とか生きがい、生きる価値などを見出せないまま、漂ったり、よどんでいる感じを抱く若者たち…意識する人もしない人もいるでしょうが、意識している人は「大人、団塊の世代が今の社会を作った、僕たちのせいではない」と言ったりします。
 ニート、ひきこもる青年たちが、働く場所、そんなに辛い思いをしないで働ける場所は簡単に見つからない。「青年の思い」でもとりあげましたが、人間関係に慣れていない、“人が恐い”ということもありますが、世の中全体が余裕なく、そういう若者を受け入れたり支援する雰囲気ではないように感じます。
 高度経済成長、資本主義の影響が、それが、成長が殆ど止まった現在も大きく影響しているように思います。そしてたえまない発展の中に私たちはいる。文明の発展は続いていますが、どれだけの人がそれを享受しているでしょう。確かに非常に便利にはなりましたが、そのデメリットも大きい。
 若者も子供たちも全体に元気がなくなっているように思います。漠然とした不安やもの足りなさを感じ、生きている実感を感じられない…そんな中でいじめも起きているのでしょう。
 「悩む力」(姜尚中著 集英社新書)を読んでいて、その疑問に答えるような文に出会いました。「人が自然の摂理に即した暮らしをしているときは、有機的な輪廻のようなものの中で、生きるために必要なことをほぼ学んで、人生に満足して死ぬことができます。しかし、絶え間ない発展の途上に生きている人は、その時しか価値を持たない一時的なものしか学べず、けっして満足することなく死ぬことになります…」
 私流に解釈すると、昔は、生きるために、生活するために、子供なりに家の手伝いをしながら、体験的に徐々に生きる術を学んで行く、知識として学校で教えてもらうのではなく。季節、季節ごとに工夫をする生活や行事、子どもの手伝い(畑や家事、生活に必要なもの、遊び道具などの物を作るなど)も必要で、子供自身も家族のために役立っているのを感じる…。今は、社会に出た時、本当に役に立つのか分からないような高度な知識も覚えなければならない。(中学生以上になると、数学などついて行かれない生徒が多くなり、コンプレックスばかり大きくなる)でも本来、自分で体験して、(物を作ったり、野菜を育てたり、お祭りなどの行事に参加したり)達成感、役に立つ喜びなどと共に生きる術を学び、生きる実感を感じるものではないでしょうか、そして大人になるにつれ、難しいこともできるようになり、また、子供たちに伝えて行く役割もできる。
 自然、植物が生まれて(芽が出て)大きくなって、枯れていくように人間も自然の一部として、生まれ、死んでいく、そして何かに生まれ変る。それが自然の摂理であり、そこに生きる意味も感じられる。人と競争したり、焦ることはない生活があったでしょう。そこまで、戻ることは出来ませんが、少しでも意識して、競争しない、ゆったりと生きることの大切さを感じることはできるかもしれません。
 また、新聞でに掲載されてたのですが、「青少年の体験活動と自立に関する実態調査」によると、小学生ですが、自然体験が多い方が自己肯定感が高い傾向にある…とありました。
 青年になってしまうと、簡単ではないかもしれませんが、自然体験、キャンプなどが体験できれば、と思います。ただそういうことにも余り対人恐怖が強かったり、エネルギーが低い場合は、それをある程度回復する必要があります。仲間と語らいの中で話すことの抵抗を弱めたり、何らかの形で自己表現ができるようにと思ってます。(箱庭、パステル画などで表現が豊かになって行く青年もいます)

和田 ミトリ

2008/08/01

生を肯定できる時

 先日、これからのことを考えると、しんどいこともあるし、期限までにやらなければならないことが沢山あるし、「やれるだろうか」と不安になって、ふーっとゆううつな気分になりました。生きることを否定的に感じてしまうような。

 そんな時、「あの音楽を聴こう、『銀河鉄道の夜』を聴こう。これを聴けることだけでも、生きていることを肯定できる」と思いました。そのCDは、千葉市に新しくできたプラネタリウムを見に行った青年が、星空が上映されている間流れていた音楽が気に入って、買って来て道草の家に持って来たものでした。

 その音楽を聴いているうちに心が安らぎました。宮沢賢治の童話(銀河鉄道の夜)は大好きで、寝る前に毎晩読んだ時期もありました。ゆったりした曲は、童話の雰囲気を思い出させ、広い宇宙を感じさせ、そして、純粋で夢見がちな子供の頃の懐かしさで胸がふくらみました。

 若い頃、仲間に裏切られて(と思って)人間不信に陥った時がありましたが、でも「昔から人間は美しいものを創って来た、絵画や彫刻や伝統工芸的な物、或いは建物などを。そういうことができる人間の一面は信頼できる」と思ったものでした。

 それから統合失調症の人が殆んどの時間を気分がもやもやして、生きているのを辛く感じながら過ごしていたのが、ある時、気分がすっきりした時があって、ちょうどその時、窓から夕日の沈むのが見えて「こんなにきれいな夕日を見ることができて、それだけでも生きている意味があると思った」と、ある本で読んだのを思い出します。

 私も自然の中にいる時、雄大な自然を見たりした時、(道草の家の行事で山歩きをした時、房総の山なみを眺めて、2、300mの高さの山でしたが、幾重にも連なっている山なみの雄大さに心が広がる感じでした)生きていることの、喜びを感じます。皆さんは?

 青年たちに聞いてみましたが、人との関わりの中で感じるものと、自然によって、また人間の創ったものによって「生きていることはいいことだ」と感じるのと両方があると思います。人との関わりの中で感じることは生きることを積極的にさせると思いますが、なかなかそればかりも得られないことも。直接でないもの、芸術的なものや自然の中でも感じられたら(感動したり、安らいだり)生きる力になるのではないでしょうか。

和田 ミトリ

相互承認

 20代から30代にかけての青年による無差別殺人事件があいついで起きています。背景は、それぞれ違う面、似た面があるかと思いますが、「誰でもよかった」「自分は誰にも必要とされない」「親は分かってくれない」「親は相談にのってくれない」「死にたいけど一人では死ねない」などの言葉が気になります。

 共通するのは話をする仲間、悩みを話す友だちがいない、ということかと思います。でも「世間を騒がせたかった」「親を困らせたかった」という言葉は、本当は親とのつながりを求め、社会とのつながりを求めていた、でも得られない、分かってほしいのに分かってくれない、そういう鬱積がたまって爆発したのではないかと思います。現在の職場の体制は、特に派遣という形は、人を育てる、大事にするのではなく、使い捨て、であり、様々な性格の青年を受け入れるものではなく、よほど外交的な性格でないと疎外感、孤立感、そして将来の不安を感じさせるものだとおもいます。

 でもまた、青年たちは一方的に相手に求めているように感じます。勿論、それが問題であり、青年たちの責任だと言ってるのではないのですが。「誰も自分を必要としてくれない」「誰も分かってくれない」などと相手に求めている。必要とされるには自分も相手を必要としなければ成り立たないし、自分を分かってほしいなら、自分も相手も分かろうとし、又、どういうところが分かってほしいのか、など表現しなければならないと思います。そして全面的に分かってもらうことは不可能だという自覚も必要だと思います。

 一方的に求めることが多い、それは育ち方にようると思います。「相互承認」という言葉を「悩む力」(姜尚中著、集英社新書)の中で読んで「これだ」と思いました。まず、親は子供を認める、そして子供はそういう親を認める、という親子関係が基準になるのに、そういう相互の関係が希薄です。勉強ができなくても、行動が遅くても、その子の個性としてありのままを認められたら!学校でも、大人しい子、活発でない子は認められない雰囲気もあり、(競争主義、成績中心で)お互いに認め合う関係を身につけないまま育った、と言えるでしょう。ゆったりしたおおらかな雰囲気の中でお互いに違いを認めながら、完全でなくても認め合う力が育っていればと思いますが、認めてほしい気持ちが満たされないまま、求める気持ちが大きくなったのではと思います。

 また「悩む力」の中で「私は、自我というものは他者との『相互承認』の産物だと言いたいです。そしてもっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要がある」と言っています。やはり自我も一人では育たない、お互いに自分を出し向き合い、認め合う中で育つのでしょう。

 職場でも他の場所でも、「自分も役に立ちたい」「教えてもらいたい」という積極性があれば、積極的に関わってくれて、お互いに「必要だ」という感覚になるのでは、と思います。

 もう一つ、20代から30代の青年が育った時代はちょうどファミコンがはやっていて、ゲームの世界で過ごすことが多かった。生身の人間との関係ではなく、左脳ばかりを使っては想像力、情緒も育たない。生身の人間の中で喜びや悲しみなどを感じる体験もなく、相手がどんな気持ちかが想像できないまま育った、という面もあると思います。無差別殺人も、それがどういうことなのか想像できないまま、受け身(被害者)の怒りのままに走ってしまった、とういことがあると思います。

和田 ミトリ

2008/07/01

定期総会を終えて

 6月29日、道草の家がNPO法人になって始めての総会が開かれました。正会員になって下さった方々が集まって下さり、道草の家の方向性、NPOになった意味、NPOとしての積極的な今までとちがう活動(まわりに訴えていく)などについて、活発に話し合われました。

 NPO法人格を取得した目的は「設立趣旨所」にも書きましたように、「任意団体よりも、社会的な信用を得て幅広い活動をし、幅広く寄付やボランティアを受け入れられる体制にしたい」ということです。具体的には、どんな活動をするか――ということになります。

 まず、道草の家に居場所を求めて来る青年たちは、参加費が必要なため、でも経済的な余裕がなくて、来たいだけ来られなかったり、親に遠慮して、来なかったり――という場合がよくあります。助成金、寄付金を得ることで、参加費を少なくして青年たちが来やすくなるようにしたい――ということがあります。

 それには、社会(地域)に訴え、理解してもらう必要があり、また地域の人たちに対しても、(人間関係などで生きづらさを感じている人もいます)心や人づき合いなどに関する講座を開くことで、啓蒙活動を行うことがいいのではないか、ということが話し合われました。

 道草の家は就労に向けての技術的なことを指導するというより、その前段階の、「自分を人を肯定し、自己信頼、他者信頼を持てるように、自分の特性に自信が持てるように、そしてコミュニケーションの力をつける」ということを目標にしていますので、心理的なこと、カウンセリング的なことを大事にしながら、人(仲間)との交わりを深めて行っています。

 出席された方の中にも、そのような活動をしてる方がおられて地域(公民館など)で人間関係やコミュニケーションに悩んでる方たちの講座を開き、同時に道草の家の活動を知ってもらうという活動をしてみよう、ということになりました。小さなものから始めて、継続的に行えたらと思います。

 また、スタッフ(準スタッフ入れて4名)だけでは、今の活動で精一杯で、積極的に活動できないので、援助してくれる方がいたら、ということを話しましたら「具体的に言ってほしい」とのことで、それをここにまとめてみます。

1. 青年の集いに参加し、話し合いの仲間になったり、青年の悩みを受けとめながら聴く。(水曜)
2. 助成金や寄付金の情報を調べ、申請の手続きを手伝って下さる方。
3. 就労をしたいという青年につきそって、一緒に考えたり就労先を探して下さる方。
4. 職親を開拓して下さる方。
5. 雑務をして下さる方。
6. PRに協力して下さる方。(パンフレットを公民館などに置く)

和田 ミトリ

いつくしみの瞑想

 先月号では、初期仏教についての対談集「希望のしくみ 」(A・スマナサーラ 養老孟司著、宝島社新書)に書かれていた「無常」、「全ては変って行く」という言葉が、私の気持ちを楽にしてくれたことを書きました。でも、まだまだこだわり、過去や未来への不安にとらわれてしまう自分を感じます。特に不安定な青年と関わる時に、もっと安定した気持ちで関わり、もっとしっかり支えて上げられれば、と思うことがあります。それには瞑想によって心を強くしたい、できるのでは、と思い、スマナサーラさんの「自分を変える気づきの瞑想法―やさしい!楽しい!今すぐできる!図解実践ヴィパッサナー瞑想法 」(サンガ)を買い求め、読みました。

 ここでは瞑想は「こころのトレーニング法」であり、ストレスやトラブルに負けない「こころの力」を育てる方法だと言っています。生きることを楽にするこころのエネルギー、前向きに気持ちよく生きる力を育てる――。

 そして、瞑想には「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の2つがあり、「サマタ」とは「落ちつく」という意味で、落ちついた静かなこころをつくる瞑想法です。「ヴィパッサナー」とは「明確に見る」という意味で、今自分の体に起こっていることをありのままに観察する瞑想法です(サマタ状態を前提とする瞑想)。体の感覚、動きに集中して、思考、雑念、妄想、感情ができるだけ起きないような、集中力をつけて心を育て強くする、それによって知恵、気づきがあらわれる――ただ、1回30分から1時間、2、3週間の瞑想の時間が必要ということで、余裕、或いは覚悟が必要のようです。

 そうした、こころをゆっくり育てる余裕がなく、緊急な治療として苦しみを和らげるサマタ療法をまずやってみようと思いました。

 他人に無制限にやさしいこころを育てる「いつくしみの瞑想」は、こころの中で願いをこめて言うのですが(声に出してもいいです)、まず自分が大事だということを認め、自分の幸せを願うことから始めます。そして、親しい人の幸せを願いながら(私は家族や青年たちを思い浮かべます)、生きとし生きるものへの(世界の飢餓や戦争で苦しんでる人、動物などを思い浮かべて)いつくしみの気持ちを言葉にしながら自分のこころの中にふくらまして行きます。

 私も、思いつくと電車の中でこころの中で言ったり、寝る前や、目覚めた時に言ってみたりするのですが、そのせいか、難しい問題をかかえている時も、「ここに、こうしてちゃんと目覚めている自分がいるのだ」と思えて、余り不安にならなくなりました。全文を載せてみます。

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私に悟りの光があらわれますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとがかなえられますように
私の親しい人々に悟りの光があらわれますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように

和田 ミトリ

2008/06/01

5月の道草の家

 5月の会報に年会費についてお願いしましたら、多くの方から年会費をお送り頂きました。ありがとうございました。賛助会員という方が多かったのですが、会報を継続して読んで下さり、道草の家の活動を支援して下さること、嬉しく思います。またNPO法人化を祝って下さるお便りも頂きました。

 5月もまたあっという間に過ぎました。道草の家の活動としては、特に大きな変化はなかったのですが、青年(男女の意味です、いつも)一人ひとりを見れば、変化はあったなと思います。

 去年から参加している青年、最初は問いかけに少し返事をするだけでしたが、この頃はしっかり、長い言葉で返ってくるようになったり、5年前に親子で一度相談に来た青年が、やはり居場所に来ることで人になれたいと、参加するようになったり、調子が悪くなってなかなか外出できずにいたが、8ヶ月ぶりに来所した青年や、6年ぶりに電話があり、「また行って話をしたい」という青年、アルバイトはしているが、思いを話せる居場所がほしい、ということで参加するようになった青年、「生活の自立をしたい」と、家を出て一人暮らしを始めた青年、だんだんと落ちついて来たが、今年になって一層落ちついて来て、ボランティアを始めた青年、そして、3年以上続いたアルバイトをやめることになった、「自分に合う仕事を見つけるのは難しい、でも何とかなると思って、今まで何とかやって来たので、探すしかないと思う」と言う青年もいます。

 でもまた、葛藤や不安が強く、対応が難しい青年もいます。私自身も余り動揺しないで、精神的な安定を保っていたいし、より良い関わり方を探るために、何冊か本を読みました。

 その中でも、割と少ない言葉で生き方を示している本に出会いましたので、紹介したいと思います。「こんなふうになれたらいいな」という段階ですが。「希望のしくみ 」(宝島社新書)という本で、スリランカから来た初期仏教のお坊さんと養老孟司さんの対談です。

無常ということ

 まず釈迦の立場として<すべては無常。心もからだもその他の物質も、すべては固定したものではなく、瞬時に変わって流れている>が基本であり、<「しかし、ほとんどの人間は「自分も物も変わらないものだ」という前提に立って生きています。生き方も、ものの見方も、何もかもがすべてアベコベです>と書かれています。

 そして<「我がないと私はない」は錯覚・・・変わるからこそ、無常だからこそ、私という存在が成り立つ。赤ちゃんの時から死ぬまで、体が変わっていく、思考、概念、知識などが変わっていく、好き嫌いも変わっていく、楽しみ苦しみが変わっていく、それが「生きている」ということ・・・>という言葉も意味深いです。本当に(本当は?)そうだと思います。赤ちゃんの時から今まで、体も心も変わって来ました。人間にとって「無常」が前提ではないでしょうか。

 また<変化しつづける無常の世界では、自我に執着していては生きられない。「無我」でないとダメなんです・・・いま私は、ここに一人、勝手にいるわけではなくて、皆様があって、皆様の協力があって、いまこの場面が成り立っている。だから「私は」「私は」ということではまったくありません。ほんのちょっとで皆で救い上げましょう。自分も手を貸しましょう・・・>

 それが<共同体として生きるための知恵、「慈悲」>だと言うのです。そんなに大げさに考えないで、<「生きとし生きるもの」という共同体を慈しみ、親切にすることが、生きる上での基本だ>というのですが。

 確かに今の社会は不条理なことが多く、一般の庶民を苦しめることが多いのですが、一人で生きているわけではないわけで、自分ができることを「手を貸す」ことはできるのでは?。「無我」は全く自分がなくて、人の言うなりになっている、というのではなく、自分も人も変わっていくのだから、自分の思いだけにこだわらない、ということだと思います。

 そして<内も外もたえず変わっていることを理解する人は、落ちついて生活できる・・・成功したからといって舞い上がることもなく、失敗したからといって落ちこむこともありません>・・・<「一切の概念をすてる・・・捨てて完全にものに執着しないという状態をつくる。・・・「後悔しない」というしっかりした気持をもつ>という言葉!

 私は先のことを「うまくいかないのでは」と否定的に考え、前々から不安を感じることも多く、そしてうまくいかなかった時は「ああ、やっぱりダメだった」と落ちこんでしまします。「成功も失敗も自然の流れなのだ」と思えれば、どんなに気が楽でしょう。「これはこうあるべきだ」という思い込み(概念)にとらわれているから、こだわりがあるから、後悔もし、落ちこみ、辛い思いをするのだと思います。思い込みから抜けるのはとても難しいですが、そのしくみを意識するだけでもいいかと思います。

 無常、無我――こだわりからの解放――そして慈悲につながって行くようです。

 また、次の言葉はとても印象的です。
<「苦しみ」とは「現実をありのままに受け入れないこと」。だから現実を受け入れられたら「苦しみはない。「現実をありのまま受け入れるのが苦しいんだ」と勘違いしている>という言葉。

 私も思うように行かない時「本当はこんな筈じゃなかった」と悶々とすることがしばしばです。また他と比較して、期待を持ち、それがかなえられそうもないと思って苦しむ。たとえば、バリバリ働いている友達や同世代の人達のことを見て、「自分もああいうふうに働きたい、働ける筈なのに、自分は働いていない、自分はダメだ」と思ってしまう。期待が苦しみをもたらすわけです。現実を受け入れ「今自分ができることはないか」ということから出発する――ことができればと思うのですが。

 また<人は変わりたくないと、また変わるはずもないと、心の中で決めつけています>とも言っています。過去に非常に辛い体験(トラウマ)があると、一歩踏み出すことを怖れる。また同じような辛い体験をするのでは、と思ってしまう。「すべてのものは(人は)変わる」ものですから、「変わりたい」と思えば、変われると思います。過去のこだわり、トラウマをなくすことなどを一緒に考えてくれる人、助けがあれば。

 そして<「すべては無常」という合理的な考えも、感情でそうは思えなくなった、「感情で至った結論は」「瞑想」という観方によって、すべて無常だと体験させることが必要だ>とも言っています。

 スマナサーラさんが「自分を変える、気づきの瞑想法」という本を出しているので、それを読んで私自身も「瞑想」をやってみたいと思います。来月、そのことを伝えられたらと思います。もっと大らかに、生きいきと生きることができたら!

お薦めの本

「希望のしくみ 」 アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司著 宝島社新書

「はじめてのひきこもり外来―専門医が示す回復への10ステップ 」 中垣内正和著 ハート出版

 帯の言葉
 「全国の引きこもり親の会」顧問の精神科医が豊富な臨床例から治療の道筋をわかり
 やすくアドバイス
 「人生はいつからでもスタート」希望はある
 主な内容
 ひきこもりからの回復――親の10ステップ
 ひきこもりからの回復――若者の10ステップ

「夢、イメージ、成功、そして、自分を変えること 」 ジョイ石井著 インデックス・コミュニケーションズ発行

「「弱さ」のちから―ホスピタブルな光景 」鷲田清一著 講談社
「そこに居てくれることで救われるのは誰か?」

(どなたにとっても参考になる、得るものがある、というわけではありませんが、道草の家に置いてありますので、よろしかったら、手にとって見て下さい。)

2008/05/01

楽しむ気持ち

 4月は結構雨が多く、木々の柔い、うす緑の若葉が、雨の中にほのかに輝いていて、ほっとする感じでした。5月になると、緑も濃くなって来て、日ざしも明るくなって来ます。どこか、自然の中に歩きたい気持ち。
 でも、気持ちがなかなかその明るさについて行かれない青年もいます。生きることが辛い、いや苦しい(働いていて苦しい、働けなくて苦しい)そして楽しい思いをすることなく過ごしている青年たち・・・のことを考えると心が痛みます。
 なぜそうなったのでしょう。「無理なことはしなくていい」という雰囲気がなく、親やまわりは「大人なんだから、働くのは当たり前」と言い、精神的に働く力がついてないのに、「働かない」ことを認めない。そして、働いていないと楽しんではいけないように思ってしまう青年もいます。外国では「人生はまず楽しむもの」という人生観があるのに対して、「日本では働くことは、厳しい、人生は厳しいもの」という人生観が最初にあります。
 親自身が、楽しむことを優先する生活、貧しくても、質素でも、将来のこと、未来の裕福な生活のみを考えずに、今を楽しむ生活――お金を使わなくてもできる筈――をしていたら、そして、「人生は、生きることは楽しいんだ、楽しんでいいんだ(勿論、そうでない時間もありますが)」という姿を見せて、子供が楽しむことを大事にしていたら、青年たちは苦しいばかりの生活ではなかったのでは、と思います。楽しむことは生きるエネルギーになるはずなのに。
 どうしたら苦しんでいる青年に手を差しのべられるでしょう。

和田 ミトリ

生きる支え

 <青年の思い>の中でも青年が言ってますが、皆さんにとって生きる支えになっているのは、どんなことでしょうか。今まで生きて来た、生きるエネルギーになった心の支えは何でしょうか。
 心の支えがあれば、辛いことがあっても生きられる――と思いますが、そういうものが何もないために、自殺してしまう。自殺はしないけど、前に進めない・・・「心の支え」を自覚しないほど、生きるエネルギーがある人もいるでしょうが、意識してなくても、自覚してなくても、何かありそうです。エネルギーがない場合は、何らかな支えが必要かもしれません。
 「働く」ことが現実的に(実行できると)は考えられなくなった青年、自分には親から心の支え、生きる意味を与えられなかった、子供の頃育つ過程に形成されなかった。そして今の社会は困っている人、悩んでる人、働けない人を“支えよう”とはしない社会だ――と思う青年。一方では“助け合う”ことが大切だと言われながら。
 まず、親から与えられる、育まれる、生きるための心の支えは?“自分は生きていていい存在だ”と感じられること、それは親から、まわりから愛され、認められれば、或いは、生きることを肯定し、楽しさとか生きがいを感じている親の生きる姿を見て、“生きることはいいことだ”と感じることではないでしょうか。或いは、親の言葉で生きる意味を感じたり・・・
 私の場合、思春期から親の過保護、過干渉に反発を感じながら、それを言えず、悶々とするうち、コンプレックスの塊になりました。でもその割には積極的に生きたと言えるかもしれません。それは、自分に合った仕事をして充実感を感じたい、という気持ちがあり、好奇心も強かったからかと思います。
 親から無条件に愛された、という感覚はないのですが、(そのため、否定的なことを言われると動揺します。だいぶ軽くなりましたが)子供の頃楽しく遊んだ、ということで生きる楽しさも感じられて、人間を、人生を悲観的に考える面と、人生はいやなこと、辛いことばかりではない、と思う面がありました。何度も挫折しながら「もっと自分に合った仕事、活動がある」と思ってきました。諦められないものがあったようで、それがエネルギーになったかもしれません。
 両親の仲が悪かったり、余りにも人に気を使ったり(自分を大切にしない)する親を見て、「生きることを肯定できない」感じになることもあるでしょう。
 そして、日本の社会は、精神面の弱さ(と言っていいか、感受性が強く、考え、悩むタイプ)を認めない社会です。「働けない」人とか精神的な病気になる人を受け入れない、優しくない。思い悩み、進めない人に手を差しのべる雰囲気でない。「社会の人たちは、自分のような人間を認めない、拒否している」――“支えられてる”という感覚がないため、安易に自殺してしまうのではないでしょうか。
 「自己責任」という言葉がはびこっています。ひきこもる青年を始め、ニート、ネット難民など多くの若者が先の見通しのないまま辛い思いですごしているのに、自己責任の名のもとに放っておくような。社会全体で“助けよう”という気運にはなっていないことを残念に思います。

和田 ミトリ

2008/04/01

春、NPO法人として出発



 道端の空地やコンクリートの小さな割れ目にも雑草が青々と繁り、道草の家の庭の雪柳もまっ白な花をまばゆく咲かせています。春ですね。まだ肌寒い日もありますが、暖かくなっていく春、嬉しく感じます。

 でも、進学、就職の時期でもある3月4月は、青年にとっては動揺し、落ちこむ季節でもあります。「このままでいいのだろうか」「このまま1年が過ぎてしまっていいのだろうか」「年齢も若くないし」・・・などと思い、焦りを感じます。でも「実際に働く自信はない」「大学も通えそうもない」・・・落ちこんでしまう。そして、社会に出ている人たちと比較してしまい、自分には未来はないかのように思ってしまう・・・何とかこの時期を乗り越えるよう、本当に、身心にエネルギーが出て、自信も出てくる時が来ることを伝え、支え合いたいと思います。

NPO法人として

 2月29日、千葉県から特定非営利活動法人(NPO法人)が認証され、3月11日に法人の登記も済みました。
 NPO法人を願ったのは、任意団体としての活動では、個人の負担も大きく限界があるので社会的な信用を得て、幅広い活動をしたい、そして幅広く寄付やボランティアを受け入れる体制を整えたい、という思いからです。

 “気をひきしめて”とは思いますが、急に“活発に”というわけにも行きません。ただ理事、監事の方が、知恵を出して下さり、支えて下さる――心強さも感じます。また、年会費を送って下さったり、有形、無形に応援して下さる皆様がいらっしゃることも、大きな支えです。(行政からは、特に助成はありませんので、今まで以上のご協力をお願いします)

 先日、理事会を開き、今後の活動について話し合いました。パンフレットやホームページを新たにするのを機会に、道草の家の目的、目ざすものを、もっと明確にして、(ひきこもる青年の居場所は他にもあるので、その違いをはっきりさせて)居場所をもとめている人や関わりのある人に分かるようにした方がいいと話し合われました。

 道草の家の活動の目的としては、「生きることの根幹、社会に生きるための土台作りに重点を置く」(その結果として、就労、学校復帰に進む――ことを望みますが)ということになりました。
 具体的な活動目標としては、相互に関連がありますが、次の4つがあると考えます。
1. 自分への信頼(自信)と他者への信頼、人間信頼の回復。
 青年たちは過去の様々な体験から自信を失くしています。スタッフや仲間からの肯定的な関わりの中で、自信がついたり、人に対する信頼も生まれてくると思われます。
2. 生きることの楽しさを感じる。楽しむことを見つける。
 楽しむこと、好きなことをすることは、自分が好きになり、生きるエネルギー、前に進む意欲につながると思います。
3. コミュニケーション能力をつける。
 人間関係には、社会で生きるにはコミュニケーションが必要です。仲間などの交流の中でそれぞれの表現のし方で、自分の思いを伝えたり、聞いたりコミュニケーションができるように。
4. 自分らしい生き方がある。
 社会一般の人(普通の人)にはなれないのではないか、人と比較して自分を卑下しがちですが、自分の個性を大事にする生き方を見つけてほしいと思います。

成長、依存、失敗の保証

 「大人側からみた思春期以前の子供の人権と尊厳を守ることは、成長の保証、依存の保証、反射的な行動の保証(失敗が許される)を大人が与えること」だという文を読み、本当にそうだと思いました。(「つらい子どもの心の本」赤沼侃史著、白日社)

 子供は一人では生きられない存在ですから、依存は十分保証されて、先月号でも書きましたが、「人から認められない、愛されたい、大事にされたい」要求が満たされる必要があります。また、失敗しても、主体的に行動することで成長すると言えますから、失敗が許される保証も大事だと思います。親が期待する“いい子”になり、「失敗しないように」日本人の昔からの価値観でもある「人に迷惑をかけないように」という親の思いを受けとって、人に気配りし、自分を抑えたり我慢したり過ごして来て、いじめに合っても、親にも言わず我慢する。そして不登校になってしまった自分を“悪い子”と責めてすまう。大人になっても働けない自分を「許せない」と責めてしまう・・・。

 失敗が許され、親やまわりから「大丈夫だよ」と言われて育っていれば、生きることに、行動することに、社会に出ることに、そんなに不安や怖れを抱かないでしょう。
 今、社会に出られない青年たちも、思春期以前の子供としての人権を、同じように保証され、育ち直すことが必要な場合があるように思います。

和田 ミトリ

2008/03/01

自己信頼に向けて

 先日、親戚のおばあさん(94才、天寿をまっとうしたと思います)のお葬式があり参列しましたが、故人の孫夫婦が生まれて間もない(2ヶ月半)赤ちゃんを連れて来ていました。若い父、母が交替でだっこしながらでした。久しぶりに小さな赤ちゃんに出会いましたが、こちらに向ける純心な目、すやすやと眠る
寝顔、そして、あやすと、にっこりとする笑顔、本当に無垢な天使のようでした。

 でも関わっている青年たち、不安や怒りや絶望感を抱いている青年たちを思い浮かべ、「だれでもこういう時があったのだ」と思うと涙がにじんで来ました。親も生まれた子を「可愛い、可愛い」と思ったでしょうし、そう思いながら育てたでしょうが、いつから、子供と親のずれが生じ、「可愛い」だけではなくなったのでしょう。そして、今の、子の苦しみ、親の苦しみになったのでしょう。
 それぞれの親子の場合によって違うでしょうが、親の話を聞くと、思い当る所がある、という方もいるし、余り思い当ることがなく、「どうして?」「まさかこうなるとは?」と思ってる方もいます。子供が心のことを話さないため、なぜ、人の中にはいれないのか、なぜ働こうとしないのか、分からなく、どう子供と関わったらいいかどう声をかけていいか、そしてどう手助けしていいか分からない――という親の苦悩がある一方、親に激しい言葉で責める、怒りをぶつける、でも親としても理解し、受けとめるよう努力しても、どうしようもないことをぶつけられることが続く。或いは、親と子の気持ちが殆んど断絶し、お互いに憎しみを感じてしまう、という場合もあります。

 子供が親に激しい怒りを感じたり、親に激しく当ったりする――という場合は、親が子供が幼い時(小学生位まで)親が非常に厳しかったり、父親が子供に暴言、暴力を振ったり(母親が助けてくれない)、の上に、学校でのいじめが加わった、ということがあるようです。まわりの大人は自分の苦しみを分かってくれない、誰も助けてくれない、強い人間不信が生じ、そして自分は、そうされるようなダメな人間なのだ、という自己否定感を抱きながら、大人になって行く。そういう強い対人恐怖、傷つき易さを感じながらでは、人との交わりや働く、という場には、出る勇気が持てないのだと思います。
 苦しみを抱えながらも、頑張って生きて来た自分を、「もっと認めて上げてもいいのでは?」と言っても、「それはできない」と答えます。

 心理学、心理療法では、まず『慈愛願望欲求』が満たされて始めて『自己信頼欲求』が満たされる、その上で『慈愛欲求』が満たされる、と言われます。
 子供の頃に「人から認められたい、愛されたい、
大事にされたい」など『慈愛願望欲求』が満たされることが土台になって「自分を認めたい、愛したい、信じたい、好きになりたい、成長させたい」という『自己信頼欲求』が生じる、それが満たされて行く過程が精神的自立だと思います。土台がなければ「自分は自分」「自分が好き」というような精神的自立を形成されにくい。子供の頃、親が「無条件に愛する」ということは、みんながそんなに十分にはできないでしょうが、まわりの人たちが(近所の人、学校の仲間、教師など)補ったと思います。でも、そういう補いもないまま大人になってしまった、人間不信を何年も抱いてきた青年に対し、もう一度『慈愛願望欲求』を満たして上げるのは非常に難しいことだと思います。10代位まででしたら、親が理解し、受けとめて上げ、抱きしめることもできるでしょうが。

 では、どうしたらいいのでしょう。一つには、自分にとって『師匠』である人を見つけることかと思います。その人の考え方、生き方に共感できるような人。身近かにはなかなか見つからないでしょうが、昔の人でもいいし、世界の偉人、本などで描かれているような人、或いはフィクション(小説、映画など)の中の人、ユニークな人など一人に「これだ!」というのでもなくても、複数の人でもいいと思います。その人が自分を認めてくれるような感覚、その人の生き方が自分も一部でもできそうだ、その人の考え方が自分を楽にしてくれる。と思えるような人に出会えれば、と思います。そして、価値観の多様性を感じることができれば、と思います。
 私も、母が心配性で支配的であったので、親に無条件に受け入れてもらってなかったことから、コンプレックスが思春期から強く、今だに傷つき易く、動揺し易い面がありますが、何とか社会生活を送ることができたのは、社会がゆったりしていて、親しい友だち、信頼できる友だちができたから、そして、本を読むのが好きで、(小説、エッセイ、その他)その中で、共感したり癒されたりすることができたからか、と思います。(若い時は太宰治、中年は宮沢賢治、ここ数年では「老子」がそうでした)、また映画が好きなのも、色々な生き方をしている人に共感する、それは、その人たちから自分を認めてくれているような感じもして、癒されるからかもしれません。
 どんな生き方をしてもいい、失敗してもいい、全部の人が自分を認めてくれる筈はないが、でも自分を認めてくれる人がいる(身近かに接する人がそうであれば一番いいですが、そうでない人でも)と思えれば、自分を自分で認められるようになるかもしれません。

 もう一つは、好きなこと、楽しいことをできるだけやって行く。楽しいことをしている時は、自分を愛している気持ちと重なります。それをできるだけ多くやっていけば、楽しい時だけでなくても、自分を愛し、認める気持ちを感じることが少しずつでもできて行くように思います。
(参考文献 宗像恒次監修『SAT法を学ぶ 』金子書房 2007年)

和田 ミトリ

2008/02/01

旅、開放感を求めて

 一月はとても速く過ぎて、もう4週目、会報を作成する時がもう来てしまった、と驚きの気持ちです。1週目がお正月で活動がなかった、ということがあるからでしょうか。
 1月末、寒さが一段と身にしみ、庭や道路沿いの木々も花はなく、葉を落としたままの木が多く、ちょっとさびしく感じます。でもよく見ると、梅が赤い小さな蕾をつけ始めました。また、道草の家に行く途中、葉がすっかりない木にざくろの実がいくつもぶらさがっているのを見て、子供の頃を思い出しました。
 どんよりとした曇り空の多い1月、寒さと共に気持ちも沈む時があります。そんな時、ふっと、「自分はどんな時気持ちが開放的になるだろう」と思いました。浮かんだのは、“旅をしたい!”“世界の色んな国を訪ねてみたい”との思いです。時間に追われることなく、世界のあちこち、心ゆくまで、南も北も、西も東も旅ができたら、と思いました。
 皆さんはいかがでしょうか。旅をしたい気持ちになるでしょうか。
 SAT療法の勉強会で「未来自己イメージ法」をお互いやりましたが、「スポンサーがいて、お金を自由に使え、支援してくれるとしたら、あなたがこれからやってみたいこと、好きなこと楽しいこと幸せなこと、元気が出ることは何ですか」という問いに、私も相手も旅行のイメージを浮かべました。相手の方は、千葉県内、日本中、そして世界へ、と広がって行きました。また昨年、筑波大大学院生のWさんが、お母さんたちにした時も、多くの方が旅のイメージを浮かべました。
 私は若い頃から、世界を気ままに旅したい、と夢想していました。その割には今まで、ネパールとフランスしか行ってませんが。
 なぜ憧れるのでしょう。日常の生活から離れたい、という気持ちがあるからかと思います。日常は細々としたことが多く、また難しいことも起こったりして、ストレスを多く感じます。青年たちと話をしたり、心理療法などを勉強したり、本を読んだりする時間は充実感を感じるのですが。
 私は、様々な国で様々な人が様々な生き方をしているのを見たい、感じたい、という気持ちが強いおうです。色々な生き方、人生がある、楽しく、そして一生懸命生きている姿を見たい気持ち(それは私が外国の映画が好きな理由と共通するのでしょう)。<人生は広い>と感じたい。又、世界の国々の遺跡を見るのも、<遠い昔にここで生きていた人がいた>という思いは、私自身も、遠い昔からのつながりがあるように思えて、その中で生きている自分、日常の細かいこと、わずらわしさから解放された感じにもなると想像します。大自然の中にいれば、人類よりももっともっと遠い昔から、自然の営みが続いている――という思い・・・世界を旅することは、私が多くの人や自然と、横にも縦にもつながってるのを感じ、心が広がり、解放されるのでは、と思います。日常の細々したこと、責任などからも解放されて・・・
 「砂漠に行ってみたい」とある人に言ったら、「砂漠って何もないのに、どうして?」と言われました。見渡すかぎり砂、砂、砂――でも太陽の動きによって、風によって、砂も動くでしょうし、色あい、陰も変わるでしょう。じーっと眺めている時、自分を自分の人生をゆっくりと穏やかに考えることができるような気がするのです。
 さて、SAT療法では実際に映像を浮かべます。旅している自分やまわりの様子を浮かべ、どんな気持ちになるか、満足するまで浮かべます。1ヶ月、2ヵ月、1年でも何年でも、春、夏、秋、冬、どこに行ってどう過ごすか、心ゆくまでイメージします。私は3回ほどやって貰いましたが、1回目は、行ってみたい国、四季に行ってみたい国を浮かべるだけでしたが、2回目はその国のその村の人と踊る、という場面が浮かびました。(映画で村の人が集まるとすぐ踊り出す場面を見ました)手をとり合って、くるくるまわったり・・・村の人々との交流を楽しむ自分がいました。3回目の時は、道草の家に来ている青年と一緒に世界の国々を旅行しているイメージが浮かびました。青年たちは、笑顔で生き生きしていました。最後に「十分満足した自分、フット浮かぶ自己像はどのようですか」という問いに「生き生きとして、おおらかで、積極的な自分」と答えました。「それが本当の自分ですよ。それを、その感覚を忘れないように、いつも思い浮かべるように」と言われました。日常に戻ると、色々捕われることが多く、十分続けられませんが、時々思い出すことで、気持ちを高めています。(実際はもっと丁寧な過程をたどります)
 でも、青年たちに同じように説明しながら「未来にどんなことをしたいか」とたずねても、思い浮かべられない、と答える青年が多いです。「旅行などは?」と聞くと、「旅行してる時、どんなことが起こるか分からない、その時、自分がちゃんと対応できるか不安だ」と“不安”のイメージが浮かんでしまうこともあります。楽しく旅行をした経験がないということもあるのでしょう。未来のイメージが浮かばない人には「宇宙自己イメージ」を先にやるといいそうです。
 昨年は、Wさんがお母さんたちや青年に、SAT療法をいくつかやりましたが、今年も希望の方に、ヘルスカウンセリング学会千葉支部、クリオネの家に所属しているカウンセラーが、引き続き、SAT療法を行います。
 ご希望の方、もっとくわしく知りたい方は、ご連絡下さい。

和田 ミトリ

2008/01/01

あけましておめでとうございます

 「軽やかに歩いたり、スキップする自分になりたい。今は地べたをはってるような感じなので」とある青年は、私の問い「もし、どんな可能性もあるとしたら、どういう自分になりたいか」に答えました。
 今の社会は、実に重いことばかりです。働く環境、生活する環境も閉ざされている感じです。
 重い気持ちを持ちながら、必死に仕事をしたり、働くことに向けて頑張って生きようとしている青年たちが、少しでも軽やかな気持ちで過ごせるよう、今年も皆様と一緒に歩んでいきたいと願っています。


 苦悩と闘っている青年たち、仕事をしながらも、「みんなと同じように思うように働けない、自分はダメなんだ」と自分を責めたり、「会社では楽な方の仕事をさせてもらってるのに、きつく感じるし、職場の人たちとも殆ど会話ができず、きっと変な人間だと思ってるだろう。でも自分には仕事するしかない。先の見通しがなく不安だ」と言う青年。或いは、うつがひどくてエネルギーがないのに「働かない自分は社会的に認められない」と面接に出かけたり、または親からの送金が後半年位でなくなる。それまでに自活できるようにしないと、でも、空白の期間があって、面接でそれを聞かれるのがこわい」と言い、就労活動に踏み切れない青年・・・。

 そんな青年の苦悩を考えると、私の気持ちも地面の方に吸い込まれて行くような感じがします。青年の気持ちに共感するのはいいけど、同じような気持ちになり、それも何人かの気持ちを想像するあまり、自分の気持ちを落ちこませてしまっては何もならない、「私のできることをやるしかない」と頭では分かっているのですが・・・

 明るい穏やかな気分であれば、プラスのことが考えられ、積極的な関わりができる、もともと、うつになり易い気質を、明るい気持ちで新しい年を過ごしたい・・・今、そうなれそうな3つのことを思い起こしました。

 一つはSAT療法の宇宙自己イメージ法を受けた時の感覚です。ごく簡単に述べると、カウンセラーの言葉に導かれて、自分が原子、分子、素粒子になって宇宙に向かって行くイメージを、そして理想の宇宙のイメージ(宇宙のはじまり)を想い浮かべていく、「無数の星が輝き、粒子のあなたも輝いてますか」などの言葉かけに、だんだんと自分が粒子になって、まわりも同じような粒子がいて、様々な色の光を放ちながら、一緒に揺れているイメージが浮かびました。その時の気持ちは、明るく、開放的なものでした。そしてその時の自己イメージは「大らかで生き生きとした自分」でした。今もそのイメージを浮かべると心、胸の中がほのかに明るくなります。療法を受けた時ほど光いっぱいではありませんが。

 二つ目は、「青年の思い」の所にも載せましたが、I君との会話です。「今の職場が短縮されて、収入も少なくなる、でも転職するにも、もうすぐ40才になる年令、なかなか見つからない。働いているのに、生活費に足りない分を借金して、借金が増えていく」と言いながら、自分も、まわりも、社会も責めない――彼と話をしているとほっとします。
 辛い、苦しい時期(今もそんなに楽な精神状態ではありませんが)自分との闘いの時期、人と交わるのもしんどいと思いながらも、「交わらなければ何も変わらない」と思い、努力して交わりの場に出た、そうした中で、学ぶものに、自分を変える言葉に出会った――という言葉に感動しました。過酷な生育歴を持ちながらも、ただまわりのせいにするだけでなく、自分なりの努力、考え方を変えて行くことで乗りこえて来たのではないかと思います。
 自分の体験、世の中の変化などをプラスに考える――ということができる。そして、自分を認められるようになった――という変化。一時は苦しさのみを訴える時もありましたが、精一杯、自分なりに働いて来た、他の人とくらべれば、働く量や収入は少ないけど、働き続けてきただけでも、自分を認めて上げたい――という気持ちが胸に響きます。

 もう一つは、道草の家のクリスマス会に小学5年の女の子3人(不登校と不登校気味の子)が宮本さんに連れられて来た時感じたことです。
 パステル画を描きたい、とのことで自由に描いてもらいましたが、色彩豊かな、のびのびとした明るい絵、写生とは違う絵で、内面から出る創造力、想像力の豊かさを感じました。そして楽しそうに話し合っていて、私たちにも話しかけて来ました。明るく元気です。
 でも、学校には行ってない、行きにくい子どもたちです。宮本さんから話を聞くと個性や能力が強く、豊かで学校のクラスメートや先生などと合わない、コミュニケケーションがとれない、一斉の授業に合わないなどで学校に行くことが非常に辛いようなのです。学校にいる時とこのように自由に好きなことをしている時とは、全然違うそうです。大人しかったり、のんびりしていて集団行動がうまくできない、仲間にはいれない――などで不登校になる子も多いのですが、それとも違うタイプの場合もあるのだと感じました。

 学校に行かなくてもいい、家で自由にしていいとなると、本を読んだり、絵を描いたり、折紙、手芸などをしたり、のびのびと過ごせるそうですが、やはり友だちを求めていて、一緒に過ごすと実に楽しそうで、生きいきとするのを感じて、このままの明るさ、元気さそして生きいきした自分を大人になっても保ち続けてほしいと願わないではいられません。
 大人になるにつれ、萎縮してしまう人が殆どですが、自立、責任を伴う大人でも楽しく生きいき過ごせる筈――女の子たちから、明るさ元気さを貰いながら、彼女らしさをつぶさないで、生かして行かれるよう、どんな手助けをしたらよいのか、を探って行きたいと思います。

2008年元旦 和田ミトリ