2010/12/03

代表の言葉(2010/12)

  競争社会から共生社会、多様性を認める社会へ

 11月の親の会は青年の要望で、青年と親が一緒に話し合う会にしました。お互いの問いかけと答が活発になされましたが、その時一人の親の方からの「親や社会に対する要望は?」という問いに、青年は「アルバイトをしようとする時、ひきこもっていて働いていない時期のことを、そのまま言えなくてごまかさないといけないけど、それをそのまま言っても働ける社会であってほしい」と言いました。

 今は一層、働くことが厳しくなりましたが、ひきこもりのことがテレビや新聞などでとり上げられるようになった10数年以上前(私が関わり出した)から「ひきこもっている、働けない」ことの理解はなかなか得られず、働き出すことは、とても難しいものでした。ひきこもる青年は、不登校から続いている人、一度働いてから、ひきこもってしまった人が増え、増加し続けて、社会でも問題になって来ましたが、不登校は「誰にでもなりうる」という認識になって来たものの、「ひきこもり」は甘え、怠け、と見られがちです。

 私が所属している日本精神保健社会学会で、「競争社会から共生社会、多様性を認める社会へ」というテーマで話し合われました。今の社会の矛盾、人々は“心豊かに”ではなく“追いつめられた”感じになっている、また環境問題もあり、「社会の方向を変えなくては」と前から言われて来ましたが、どのくらいの人々が自覚しているのか、疑問です。

 男性は、父親は「競争によって頑張って、頑張って働いて来た。それによって社会は発展した。子どもとは余り関われなかった。そのために子どもがひきこもるようになった、と言われても困る」と思う方が多いと思います。繊細で真面目で優しい子ども、青年が、競争について行かれないことを、なかなか理解できないようです。

 でも、様々な人がおり、親子でも気質や育った環境が違います。親の世代は子供の頃まだ、兄弟も多く、近所付き合い、親戚付き合いもあり、多様な人々の生活、生き方を見ることができました。でも、それがなく、多様な人、大人の人、働いている人を見ることなく、過した子供は、“大人のイメージ”、自立した、働いている大人のイメージを描けない、ある青年は「子供の頃“サラリーマン”というのは何となく分かる、でも自分にそれは合わないと思うけど、他の職業のイメージが持てない、将来のことが考えられず非常に不安だった」と言ってます。

 多様性の問題は、「動植物の多様性が非常に大事だ」ということも、最近よく言われています。絶滅する品種が多くなり、少い品種、単一の品種になると、それも弱って行き、自然環境としても大きく損なわれて行きます。

 また「1/4の奇跡――「強者」を救う「弱者」話」(マキノ出版)という本を読んだのですが、アフリカのある村での伝染病(マラリア)の発生のことから科学者や医者が調査し、生き残った人、マラリアに強く、障害のない遺伝子をもった人は、障害のある人(1/4は必ず生まれる)がいてこそ、生まれる、ということが分かりました。これは私たちの生活にも当てはまり、私たちが元気でいられるのは、過去や現在、病気や障害を持ち苦しんでいるから、その人たちが引き受けてくれるからだ――ということを知りました。

 学会で「でも、共生、多様性を自覚している人は少い、どうやって広めていけばいいのか」という疑問も出されました。

 それは「自分のまわりの人、家族や職場、学校、地域、コミュニティ(ネットでも)の人たちに伝え、その人たちがまわりの人に伝えることで広がって行くのではないか」とのことで、私は、道草の家の活動を通して、そしてこうして会報に書くことにより、少しでも実行できるのではないか、と思いました。

心の叫び

 自分の生き辛さは子どもの頃からの親との関係によるものだ、と気づいた青年(女性Tさん)が、他の親の方からも話しを聞きたい、ということで一緒に話し合ったわけですが(後の方に掲載)、その中で印象に残ったことは、「子どもは黙っていても、反抗的な言葉、態度をとっても、親から認められることを望んでいる」という言葉です。そして、親から認められているか、混乱して“生きるか死ぬか”を考えてしまう時は「“見捨てられる恐怖”が強い」ということです。

 「見捨てられてはいないか、疑心暗鬼、『見捨てられない』と思えるまでは長くかかるが、諦めないでほしい」とも言ってます。

 親と話さない、心のことは話さない、或いは顔も見合わせない、という場合でも「親は自分を見捨てないでほしい」という気持を抱いているのではないでしょうか。「親は見捨てないよ」ということをどうやって伝えたらいいか、分からない、難しい、という方が多いかと思います。

 でもTさんの言葉、「諦めないでほしい」、そして「親のせいでこうなった」など子どもに責められた時、「親だって一生懸命そだてたのに」と言って、責め合うのではなく、これをきっかけに「向き合ってほしい」というのも分かります。それはとても難しいことでしょう。親自身も自分と向き合うことですから、しんどい―でもできれば、これをきっかけに、自分と向き合い自分の生き方、子どもの生き方を考えるチャンスにしてほしいですし、自分らしく生き生き生きられる生き方を見つけてほしいと思います。