2008/10/01

アサーション・コミュニケーションの大切さ

 9月も終わりになってぐっと涼しくなり、秋を感じるようになりました。毎日、様々なことがありますが、過ぎてしまうと「もう1ヶ月たったのか!」と時が早く流れるのを感じます。
 
 青年の集いのテーマに「アサーション」としている日がありますが、私自身が若い頃から自己表現・自己主張ができず、一番の悩みでしたし、カウンセリングを学びながら、一層、その大切さを感じました。そして、日本ではその大切さが認識されず、社会に出にくい青年たちの悩みであることに気づきました。
 自己表現・自己主張できず、自分を抑えながら相手に合わせながら過ごすのは、自分を生きている感じがしなく、ストレスを感じます。
 生き辛さの一番の元は、人間関係であり、人に受け入れられるか、うまくつき合えるか、人によく思われるか、認められるか、傷つき体験もありそれが否定的に感じる時、生きるのが辛くなるのではないでしょうか。認められない自分、認められない存在…そして職場での人間関係の厳しさを感じ、働くことの不安を強くします。働くことの大変さは、仕事そのものより、人間関係の厳しさをイメージすることが多いのではないでしょうか。
 そして人間関係を築くのは、主として、言語的コミュニケーションだと思います。日本人はアサーション、コミュニケーションが下手です。そのために率直に思いを話せずお互いの理解が不十分になりがちです。私たちは、アサーション(攻撃的でもなく、非主張的でもなく、自分も相手も大切にしながら、自分の思いをできるだけ相手に伝わるように伝える)もコミュニケーションも、そんなに大切に思わずに子供の頃から身につくようには育てられていない、活発な子は自分から表現しますが、大人しい子は、表現しないまま、見過ごされてしまう。
 
 伝統的な日本文化では「相手の気持ちを察し、自分の感情を抑えて、まわりに協調して行くことがよりよく生きる知恵」とされて来ました。そこでは、目上の人の言動に従い、まわりの人に合わせることで、仲間として守られる――という面がありました。
 でも、時代が大きく変化し、工業化社会、情報化社会となり、変化について行くには、多様性の中で自ら判断しなければならず、また、競争社会では人は、仲間というより、競争相手であり、守り育てる意識はなくなっている。でもまた、「みなと同じように、同じなのがいい」という意識は続いており、変わった子や、ゆっくりな子や、察しができない子ははじかれ、中学、高校などではそうした子が、いやと言えないままいじめの対象になったりします。お互いの違いが認められず、いじめが起こる。OLの間でも「KY」という言葉がはやり、仲間はずれを作ったりしています。
 私のことで言えば、母は「子供は親の言うことを聞くもの」という価値観を持ち、でも私は戦後の民主主義で育ち、「そうは思えない」と思いながらもはっきり言えず、他の場でも自分の思いを表現できずに、表現すること、判断することに自信を持てませんでした。(一人っ子ということもあり、又、母の性格で過保護ということもあり、私に対して先まわりばかりして、私に任せないことがあって、判断力や社会性、気配りが育てられなかったという面もあります)。
 
 「青年の思い」の所で、青年たちも言っているように、今も日本は「察する」ことを求められる世の中です。また「不登校」ということも言いづらい、それぞれの違いが認められない社会です。欧米やオーストラリアなど外国へ行くと、皆、それぞれの思いを率直に話をして、「違って当たり前」という雰囲気があり、気楽に話せ、気楽に過ごせる、と聞きます。
 伝統的な文化、風習が根強くありながら、同時に個人の判断力や自己主張も求められ、それがないと生きのびられないような日本の社会かもしれません。
 コミュニケーションも日本人は苦手ですが、それは「察し合う」のではなく、主として言葉のやりとり(表現、仕草、など非言語も含まれますが)の中で、お互いを理解し合う(背後にある感情も理解しながら)。仕事などでは、コミュニケーション能力はお互いの共通点や差異を理解しながら交渉し合える能力と言えるかもしれません。
 
 また、「コミュニケーションを楽しむ」という言葉がありますが、青年たちも趣味的な話の中でコミュニケーションを楽しんでいます。それはお互いに仲間として感じる、仲間として認め合えることであり、自信につなげられるし、表現力もつくことでしょう。私も青年たちとのコミュニケーションを楽しみ、心のことなど話し合う中で学ぶものが沢山あるのを感じています。
 

       ねぎらいのまなざしとことば

 コミュニケーションのもう少し積極的な意味で、「ねぎらいのまなざし」という言葉を姜尚中さんが言っているのを知り(「悩む力」の中で)、とても大切なことではないかと思いました。
 姜さんは、家族や深い関係(友人、恋人)とは違った社会の中でのつながり、特に仕事の場での「アテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)」が働くことの意味を与えている、と言ってるのですが、これは、家族などの中でもあっていいし、大切なことだと思います。子どもが小さい頃も、何か親が助かった、嬉しかったような時、「ありがとう」という意味の言葉とまなざしを向けることは、子どもは、自分の存在の意味を大きく感じるのではないでしょうか。「ねぎらいのまなざしと言葉」をお互いに向けながら育てば、大人になっても、自分の存在の意味を感じることができると思います。大人になってからでも遅くはないと思います。道草の家では青年の集いを終えて帰る時、「お疲れさま」と言い合いますが、一緒に集えたことを心をこめて感謝の気持ちを表したいものと思います。(家族でも…)

和田 ミトリ