2010/05/09

光と影

 4月は冬に逆戻りの日がくり返しましたが、5月を迎え、木々の新緑が光に映え、目にしみて、春は確実に訪れ、そして初夏に向かっているのを感じます。しばし心もなごやかに、ほっとするような感じになりますが、新緑を見ても、心が動かない、癒やされない人もいるだろう、道草の家の青年たち(20代、30代の男女)のことを考えます。
 そして、最近、長谷川博一さん(カウンセラー、東海女子大学教授)の著書を何冊か読み、「ああそうなんだ、そうかもしれない」――と、私達の心、そして「なぜ苦しむのだろう」という問いへの答えが、かなり得られたように思います。悩み苦しみながら、「どうしたらいいか、どう考えたら心が落ちつくか」分からないまま、社会に出られない多くの青年たち、そしてその親の方たちのことを思いました。
 それは、人には、人の生には、光と影があるのに、光ばかり求めて、それが得られない自分、影の部分がある自分を「ダメな人間だ」と思い、苦しみに陥るのではないか、と思うのです。
 長谷川さんの本の中に、あるお坊さんの言葉として、木の葉が秋に落葉となる時、表を向けたり裏を向けたりしながらひらひらと舞い降りる、表だけ見せて落ちることはできない。人間の生も、表と裏があり、両方をみせながら生きるのがよい――とありました。そのことが長谷川さんがカウンセリングをした東ちづるさんの著書「<私>はなぜカウンセリングを受けたのか」に書かれています。
 女優の他司会やコメンテーター、ボランティアなど多方面に活躍しているちづるさんが、一人になると、自責の念、自己嫌悪に陥り、虚しさ、さびしさに涙し、大声で叫びたくなる、死にたくなるという苦しみを抱えていたとは想像もしませんでした。
 でも、30代半ばで、自分はAC(アダルトチルドレン)だったと気づきました。自分のことよりまわりに気を使い、“いい人”として生きて来た、自分の本当の気持ちを知ろうともせず、相手、まわりの期待に合わせてしまう…お母さん自身が、まわりの人、世間の人、家族にとって、いつも明るくしっかりした人でいることを一生懸命やって来て、それをちづるさんにも期待し、ちづるさんはそれに応えて、家でも学校でも“いい子”をやって来たわけです。相手の期待に「できない」とか「いやだ」とかも言うことなく。それはいつも“光”だけで生きようとして“影”を認めない、無理な生き方だったわけです。
 また「子どもたちの『かすれた声』」の中では、「キレる」少年たち、ふつうの子がキレて(解離状態を起こし)犯罪を犯してしまうのも、自分の影の部分(「人と同じようにできない」とか、まわりから「ダメだ、ダメだ」と言われそれに反発できず自分も「ダメな自分」と思ってしまう)がふくらんで、自己否定感と、絶望感が爆発した、と言っています。女の子の場合、摂食障害やリストカットもそうした解離状態だとのことです。(みんなが「光」と「影」を認め、両面を生きることが大切なのに)

影を認めない社会
 なぜそういうことが多くなったのでしょう。
 一つは、社会全体が、進歩、発展とか高度成長に価値をおき、だれでも努力、頑張れば上昇できる――という風潮があって光の部分が強調されたのでは、と思います。「頑張る」ことに最大の価値があるような。(ちなみに外国では「頑張れ」という言葉はないそうです。強いて英語に訳せば「chin up」で「上を向け」「めげるな」「自信を持て」という意味
になる)
 もう一つは、日本の伝統的な社会風潮として、「世間に合わせる」「人と協調する」ことを大切にしており、人と違ったり、一般的でないことを恥しいとか、いけないことに思ってしまう。そういう影の部分を認めない風潮があります。そしてそんな中で不登校、ひきこもっている、働いていない自分を「ダメな人間」と思って、それはまた、対人恐怖、神経症、うつなどの症状にもなって行きます。そして働く自信、意欲を奪います。
 たとえば、子どもが小さい頃、一人遊びが好きなのを、「仲間と遊ばなければ」、という親の価値観があり、親は子どもを一生懸命、仲間と遊ばせようとした、子どもは自分の気持に合わないことを強いられ、でもそれが十分できないことに「自分はダメな人間なんだ」という思い、そのまま大人になる。いざ働こうとしても、働くことに恐怖を感じる。でも親は「自分が頑張って来た、頑張って働けたのだから、子どもも頑張れば働けるはず」という思いから抜けられない。親子の溝は埋まらない…。
 私のことを言えば、母は完璧主義、「失敗してはいけない」という思いが強く、私も「失敗することはいけないことだ」という価値観を植えつけられたように思います。でも、性格的にのんびりしているので、母の言うことをきちんきちんとはできず、頑張ることもできず、いわゆる“いい子”にはなりませんでした。ただコンプレックスばかり強くなり、悩むことが多くなりました。それでも社会に出られたのは、時代がのんびりしていたことと、幼い頃は親の干渉も少なく、友達と自由に遊び、友達関係を作る力がついていたからだと思います。でもこの頃も、「うまくいかないのでは」とか「失敗したのでは」と思って、ゆううつ感をふーっと感じる時があります。
 これが、本人が完璧主義で頑張り屋の気質があれば、まわりもそういうことを評価するという現代の風潮の中で(学校が特に)完璧にしよう、頑張ろうとする気持が助長されます。でもそれは続かず力がつきる、でも完璧であることを求め失敗をする自分を責めて苦しむ、という状態になる場合もあります。
 或いは、親がまわり、世間に合わせ、協調する生き方をして来ても生き辛くなかった場合、同じ様に子どもにそれを期待してしまった時、性格的にも時代的にも同じでないので、子どもは内向的で繊細のため、主体的に人と関われず、「人を傷つけないよう」という思いも強くなる、そして人と関われない自分をダメな人間だと自己否定感が強くなる…
 人間は、「できないことも、失敗することもある」「まわりと違うことも多い」。光に照らされることばかりではないはず、「不登校だった」「働いていない」「通院している」など、多数派ではない、影の部分を認めない社会、――そしてそれを感じて自己否定感に陥っている青年たち。
 青年たちは、様々な力、知性も感性も豊か、表現力、器用さもあります。ですから、自己否定感から抜け出せれば、仕事もできるように思います。それには、生きていく中には光ばかりでなく影の部分があるのが自然なのだ、人と違っても、失敗しても、それは自然なことなのだ――と思えることではないでしょうか。