2012/02/02

夕日

 道草の家の2階の窓から夕焼が見えます。高いビルが建つまでは富士山シルエットで見えたのですが。
先日は夕焼の名残り、少し黒ずんだ茜色の空に墨ではいたような雲が浮かび、こんな美しさもあるのだな、と思いながら眺めました。一昨年は青年たちと夕日を見に検見川海岸まで歩いて行きました。橙色の夕日が空を茜色に染め、海に沈んで行くのをじっと眺めた時の感動を思い出します。

 夕日と言えば先日、映画「Always三丁目の夕日’64」を見ました。ちょうど私が若い頃の東京の下町、商店街の人間模様が描かれています。ただ、私は名古屋の住宅街に住んでいたので、雰囲気がかなり違います。映画の中で近所の人たちが、他の家のことをお互いに自分の家族のように、喜んだり、怒ったり、心配している様子に、複雑な思いと羨ましさを感じました。ありのままの自分の感情を出してつき合える―という人間関係があるのだ―と。

 今は、外で遊ぶ子どもたちの声も聞こえませんし、道を歩いていて顔なじみになる子もいません。近所の人のことも殆ど知りません。

 今の日本は特に、近所づき合いがないように思います。テレビなどで、ヨーロッパや中国の田舎や小さな町がよく放映されますが、私は自分はなかなか旅行できないので、旅番組が好きでよく見ます。 懐かしく、ほっとする場面・・・。

 中国などの田舎(下町)で路地にテーブルといすを出して老夫婦がお茶を飲んでいる様子には、(通る人も寄って一緒にお茶を飲んだり・・・)あんなふうにゆったりと過ごせたらいいな、と思います。イギリスの田舎では、村人がパブに集まって、酒を飲み、歌い、踊っている。またイタリアなど、複雑に建てこんだ(何階だて?)家の窓からカメラに向かって「家の中へどうぞ」と言い、屋上まで案内する場面など。

 このような所で過ごせば、自室にひきこもって人と接しない、交わらない、そしてそれを親子で悩み、苦しむ―というようなことは起きないのでは、と思ったりします。

青年(男、女)たちに学ぶ

 青年の集いの活動としては特別なこともなく過ぎた1月でしたが、個々の青年から色々なことを学び、考えさせられました。それぞれに歩む過程は違いますが、自分の課題に真剣に取り組んでいる様子を感じます。

 まずTさんがホームページをリニューアルしてくれました。道草の家の特色をよりよく伝えるため、写真を豊富に使い、色もパステル調に随所に使ったり、言葉も適切なものに変えたり、つけ加えたり。他の同じような居場所のホームページなどを参考にして、色々模索しながら作成してくれました。こうしたものを綿密に考える豊かな感性―をこれから生かせないものか、と思います。(まだ外で働いたことはないのですが)(ホームページを見てください)

 また2年続けたパートの仕事をやめた青年、やめる決心をするにはどんなに悩んだことかと思います。でも、混乱しながらも、今自分ができること(家事など)をやって、できた自分を認めてあげる、そして、できないことは許してあげる、自分を励ましてあげる―ことを続けてるうち、少しずつ落ちついて来ました。「仕事をやめてよかった、と思える時が来る」と信じながら―と言っています。一つずつ体験しながら、失敗の体験を乗りこえながら、決断力、回復力を高めて行くのだと思います。

 もう一人、仕事をやめた、という青年は、もっと積極的です。積極的になりました。青年の思いの所で「思っていることを言えた」として述べていますが、「いい体験も悪い体験もいっぱいしたい」と言ってます。失敗を怖れて動けなかった自分がある時、はじけた―というのです。

 今は嬉しいことばかりでなく、怒りや憎しみを感じる自分に驚き、これからも多様な自分を感じることに期待があるようです。ずっと”いい子”で来たとのことです。

 そして、「生きる意味」を模索して来た青年。(「働かないでそんなことばかり考えてるなんて!」と思う方もいるでしょう)10代から人間関係に緊張するようになり、20代でアルバイトをいくつかするのですが、どうしても続けられなくなって、家にいるようになりました。「働けない自分」を考え続けてもどうしたらいいか分からない。抜け出せない、苦しいだけ、それで、考えるのをやめた。では、そういう自分にも「生きる意味」があるのだろうか・・・。 ロシア文学や日本の古典、平家物語、仏典などを読みました。(無常、そして死への親近感を感じた―そうです)

 そして、最近は荘子(紀元前の中国の思想家。仏教伝来より先、仏教にも影響した)の本を読んだ。共感することが多い、と言います。 その主な思想は、

 ○「無為自然」(宇宙に存在するもののすべてをありのままに認め、これにいかなる作為も施さない、という思想)

 ○「万物一斉」(ものごとは、ちがうという視点からすればみんなちがう、しかし、おなじという視点からすれば万物はみなおなじなのだ)

具体的に行動するわけではないが、心の中では、少しづつ安定したと言います。

 私も前に、同じ「道家」としての「老子」を読んで共感しましたが、荘子の言葉も私にかなり合いそうです。

 みなそれぞれ、宇宙の中で(遠く、目に見えないものも)存在し、地球に存在している。遠い遠い昔に宇宙が作られた時から。それには、人間が価値がある、とか、ない、とか勝手に決めるものではない。人間は動物より偉いとか、草木よりも価値がある―とは言えない、そして”絶対的な正、絶対的な誤もなく、絶対的な善悪も決められない。違った視点で見れば様々な見方ができる。バリバリ働ける人がいい(善)とは限らず、ゆっくりしたペースの人が悪いわけでもないと思います。それぞれ”できること””できないこと”がありますが(それも変化します)いい悪いで判断することではないように思います。

自縛からの解放

 子どものことで長い間苦しんできた方が「ふっ切れた」ことを話され感動しました。

 自分で自分を苦しめていた、期待通りにならない子どもに不満を感じ、まわりにもひけ目を感じ、みじめだ、と思ってしまう自分、それは、自分で自分を縛っていたことに気づき、「自分が子どもから逃げる、離れればいい」のだときづいたのです。”自分の方が”―それは自分の気持ちを楽にし、それは、表情や態度にあらわれ、子どもの気持ちを楽にすることでしょう。楽になれば動きたい気持になれる。

 働けなくなったのにはそれぞれが葛藤、苦しみがあったわけですし、それぞれが回復していく過程もありますし、「みんなと同じように」とはならないこともあると思います。

 子どもたち青年たちが悩み苦しんでいることを(それを表現できない場合も多いでしょう)を分かってあげて、それが分からないまわりの人からは自分から離れる。

距離を置く。(全てを断つ、という意味ではなく)働く働かない、を人間の良し悪しの基準にしない。荘子の言うように人間として万物の一人として同じ価値がある―のだと思いたいです。