2009/06/01

緑の木々に思う。

 6月は、緑が一段と鮮やかです。うすい緑から濃い緑まで、街路樹や家々の庭の木々。
 緑が少なくなったとは言え、千葉は、歩けば緑が目にはいります。
 でもまた、テレビで見る棚田の緑はとりわけ美しく感じます。
 そして、森の木々も様々な緑の葉をしげらせています。そんな中で、若者が働いている姿が、また若い女性も楽しそうに田植えを手伝っている情景が映されています。

 でも道草の家で関わっている青年たち(彼、彼女――いつも両方を言ってます)何人かはとても苦しい辛い日々を送っています。
 大きな波の底の方に行ってしまったようでなかなか浮かび上がれず、苦しんでいる。・・・・
 一方では自分のやりたい事を生き生きとしてやっている若者がいるのに、一方では悶々と苦しんでいる青年がいる・・・どこで方向が変わってしまったのでしょう。
 私が出会っている青年たちは、本当に知性も感性も豊かなものを持っているのに
 いつも感じていることなのですが「何で?」と思います。
 色々なことが重なったのだろうとは思いますが。
 生まれつきの気質(とても繊細で感受性が強い、深く考える)もあるのでしょう。 家庭や学校の環境もあるでしょう。(それはまた時代の影響を大きく受けています)

 

         子育てと社会

 「ちちんぷいぷい、痛い痛い飛んで行け!」という言葉は皆さんも聞いていることでしょう。
 小さい子が転んだりして、ひざをすりむいたり手足を打った時、母親が自分のつばをつけたり、さすったりしながら、「ちちんぷいぷい…」と言った時、痛さも消えたように感じる――という情景を何かで見たり聞いたりします。
 青年たちの心の痛みが、こんな感じで消えたらどんなにいいことでしょう。私自身は、親に「ちちんぷいぷい…」をしてもらった記憶はないし、自分の子どもにそうしたこともありません。いつの時代にそういうことがあったのでしょう。
 人間社会が余りにも複雑になった――ことが、人々に精神的苦しみをもたらしたのではないかと思います。

 先日、テレビで見たのですが、類人猿と人間の一番の違いは、親は子供が“自分で生きられる”まで子育てに専念する、(楽しみながら――のようです)それしか親(大人)の役割がないようで、特にそれ以外の文化はなく、それ以外の楽しみはない――という単純な生き方のようです。
 私は子育て以外に自分のやりたいことをやって来ましたし、類人猿のような生活に戻ったらいいとは勿論思ってません。
 ただ、親が子どもが本当に自立できるまで育て切ることが難しい社会になってしまった!――ということに心が痛みます。

 親御さんからの相談も受けていますが、可愛くて、愛情こめて育てたつもりなのに、思春期頃から、或いは20代から精神的に不安定になってしまって、30才すぎても不安定さが消えない。
 そして、「人がこわい、人とうまく交われない。自分はダメな人間だ」と悶々として、そこからなかなか抜け出せない、ということを聞き、親も子どもも苦しんでいる姿に私がどう手助けできるか、思い悩んでいます。

 

       幼いころのイメージ

 青年の思い」(会報)でまとめたように、青年たちに幼い頃の自分のイメージ最初に浮かぶものを聞きました。
 大部分の青年が、みんなから離れて一人でいる姿を浮かべています。
(一人で楽しく遊んでいるイメージ、友達と楽しく遊んでいるイメージを浮かべる青年もいますが)
 子供の頃から、みんなとなじめず、そういう自分を否定的に感じていた、それが大人になっても人と交わることが苦手、不安を感じてしまうことにつながるようにも思います。

 気質的に「自閉気質」は「自分の世界を大切にする」ものですが、それはそれでいい悪いの問題ではなく、そういう気質を受け入れる寛容さがない社会になっていることが問題かと思います。
 その子の特性である気質が生かされず、周りからの疎外感を感じ、否定感を感じてコンプレックスになってしまうのではないかと思います。
 一人で遊ぶことを楽しめればいいのですが、楽しかった思い出はない、という青年もいます。
 幼い頃のイメージが、さびしそうだ、辛いようだと思うのは、幼い自分(インナーチャイルド)が傷ついて、それが癒されないままになっているからだと思われます。
 先月号でも延べましたが、本来幼い子どもは、自分の興味のまま、自分の気持のまま、好きなことに集中し、楽しむことができるのですから。

 インナーチャイルドの癒し方、育て方をまだ十分勉強してないので、もっと勉強して青年たちが少しでも生き易くなるよう、一緒に考えて行きたいと思います。

和田ミトリ