2012/07/02

ゆるやかな架け橋

 先日、なの花会の講演会で、放送大学教授の宮本みち子さんの話を聞きました。ドイツ、デンマーク、オーストラリアなどでは、義務教育を修了できなかったり、高校中退した若者に対し、「学校に行かないなら働くこと」ではなく、就労までの「ゆるやかな、長い架け橋がある、とのこと、考えさせられました。

 ワークショップという形で自分の好きなことをやりながら、ゆるやかに地域社会とつながる体験をする。例えば音楽が好きな子数人を集め、楽器の練習だけでなく、地域のイベントを計画し参加したり、洋裁、手作りが好きな子たちは、地域から仕事をとってコスチュームを作ったり、動物が好きな若者たちは、牧場で馬や牛などの飼育を手伝うなど。そして、ワークショップの期間も手当て9万円ほどつき、親に負担をかけない、ということで誇り、自信もつく。

 日本では、学校に行かないなら仕事―ということで、どちらにも行かれない若者への配慮がなされていません。不登校になったり、ひきこもったりした時、こういう場があったら、エネルギーのあるうちに早期に手を差しのべる手だてがあったら、と思います。学校に行かれなくなったり、働けない自分を責めることが長く続いたために精神的不安定がひどくなり、通院、服薬が必要になった青年が殆どです。

 こうした青年たち、居場所に来たり、仲間との交流の中でエネルギーが出て来た者も多くいますが、すぐ「就労」を考えるのではなく、楽しみながらゆるやかな社会体験の場があれば、と思います。

 KHJひきこもり親の会関連の活動ですが、青森の果樹園で就労への過程(かけ橋)として、自由にいつでも参加してりんごを育てる――という活動が計画されています。なの花会の一人の青年が準備から参加する、と言っています。青森は遠いので千葉にもあれば、そして色々な内容のものがあれば、と思います。宮本さんの言葉のように、学校とは違った成長の場、学校と社会の間の、人間発達の多様な場が必要だと思います。

対人恐怖

 道草の家で関わる青年たち、表現力も豊かで社会に出ている人と何ら変わらないように感じますが、就労の方にはなかなか進めない状態――落ちこんで外に出られない時もあり、また一時働いても続かなかったり――何が主な原因なのだろうか、を考えると、「対人恐怖」が最も大きく共通するような気がしました。

 日本でひきこもる青年が多いのは、日本人の傾向として「対人恐怖」が強いからではないかと思います。私自身もなかなか対人恐怖から抜け切れず、未だに電話をかける時、非常に緊張します。(親しい人はいいのですが)

 対人恐怖――外国では殆どなく、英語ではその言葉はなく、日本語「Taijinkyofu」と書くそうです。人と自分の考え、感じ方が違う場合、すぐに「自分が間違ってるのでは」と思い、「自分はダメだ」という思いが浮かぶ。自分を否定的に感じるのは辛い、それを予想するために人と会ったり話をする時、非常に緊張するわけです。青年たちはいじめなどで傷ついた体験がある場合が多く、傷つき易く、また相手を傷つけないよう気を使ったり、まわりと違う行動をとることを怖れたりしがちです。

 相手から、自分とは違う考えや思いを言われると、全否定されたように思ってしまう。でも外国では、人と考えや思いが違うのは当たり前、その部分だけ否定したにすぎない、人間として否定したわけではない、という自覚があるのでしょう。オーストラリアや欧米に行って、「その国の人とつき合うのは、気が楽、裏表がなくて」という話もよく聞きます。「傷ついた」とか「傷つけた」ことによる心の痛みのない世界―に解放されたいものです。

 また、日本では「失敗」への責任が重い―ということもあるように思います。日常的には勘違い、ということもあり、失敗も色々とあります、そして、不登校やひきこもること(働かない)を、多数派からはずれることを「失敗」とみなしてしまう。ある青年が、高校生の時、不登校になった時に教師から「高校ぐらい卒業できないのは人生を失敗したことだ」と言われた、と話したことがありました。10代のうちに「人生の失敗だ」と決めつけられる!・・・

 失敗(本当に失敗かどうか分かりませんが)に気がついた時、やり直しができる、「やり直そう」という気持をまわりも認め、応援する、という社会風土であれば、と思います。日本は「自己責任」ということに厳しすぎるのではないでしょうか。

 これは、いろいろな考えがある、色々な生き方がある、――とはなかなか思えない、青年たち(親も)の生き辛さにつながっているように思います。

 自己表現ができたり、仲間と交流するエネルギーもあるのに、なかなか社会に(就労の方に)出られない、青年たちの几帳面な性格もありますが、「失敗は許されない」という思いも強いのかもしれません。

2012/07/01

小さな大自然

 先月号ではイタリアの小さな村のことを書きましたが、その後テレビのドキュメンタリー番組を何となく見ていると、ドイツから来た青年がかやぶき屋根の古い民家とまわりの自然に魅せられ、その民家を修復して、日本の女性と結婚し、農業をやりながら住んでいる様子が映されていました。ヨーロッパの青年が日本の田舎に魅せられるのだ、と思いました。その番組の題は「小さな大自然」でした。

 それから日本のあちこちにかやぶき屋根の民家が映されているのを見て、皆が大事に考えている様子を感じました。近くでは筑波山の麓に数軒、かやぶき屋根の民家があり、是非訪ねてみたいと思っています。

 私が子どもの頃、叔母の家、大きなかやぶき屋根の家に遊びに行った時のことが思い出されます。広い土間の一角には馬がいました。裏には、上の方から引いて来た湧き水が、竹筒からいつも水が流れていました。裏山には小学校の分校があり、学生の頃行った時も、木造の小さな校舎はそのままあり、運動場の端に腰をおろして眺めると、村の家々、そしてまわりには山なみが幾重にも広がっており、心も広がる思いになったことを思い出します。