道草の家の西の窓から、斜め向かいに大きないちょうの木が見えます。
去年の秋に黄葉し、間もなく葉が落ち、枯木のようになっていましたが、春になった今、鮮やかな緑の若葉をいっぱいつけ、「こんなに大きかったかしら」と思うほど、窓から外を見る度、その存在が、目にとびこみます。
そして、季節の移り変わり、自然の大きな営みを感じます。
道を歩いていると、小さな可愛い花が通りの家の庭や道端に咲いているのにも、自然の営みを感じます。名前の知らない花が多いですが道路のわれ目に、タンポポが咲いていました。もう胞子になっているのもあり、まんまるな球、これにも感動しました。触ってみたくなり、ちょっと指を触れると、胞子が少しくずれて落ちてしまいました。悪いことをしてしまった、と思いました。3日後に通った時は、花も胞子の球もありませんでした。あの時の花も胞子になり、風にみんな飛んでいってしまったのでしょう。
“通学路”の向こうは?
先日、「世界の果ての通学路」というドキュメンタリー映画を見ました。4つの国の、学校へ通うにも、厳しい自然と戦いながら、数時間かけて通う子どもたち。
ケニアの兄妹――15km2時間かけて通います。象も生息しているサバンナを、象がいないか、立ちどまっては、その気配を確かめながら、走り抜けて行きます。
アルゼンチンの兄妹――18kmを1時間半かけてパタゴニア平原を馬に乗って通学しています。
モロッコの3人の少女たち――22kmを4時間かけて、アトラス山脈を越えて、街の学校に通います。途中足を痛めた友だちを励まし励まししながら。
インドの3兄弟――4kmを1時間15分かけて通います。兄が病気で足が悪く歩けない。幼い弟2人が兄を車椅子に乗せて、ひっぱり、押して行く。道があるわけでなく、川の中も、止まりながら、動かして行く。また街にはいってから、タイヤがはずれてしまった。何とか修理の店に行き、タイヤを直してもらい、学校へ着く。学校ではクラスメートが待っていて、車椅子から抱え出して教室へ。危険に満ちた通学路。
こうした4つの国の子どもたち、困難を乗り越えて通う子どもたちの表情は生きいきしています。感動を呼ぶ場面ばかりです。そしてちらしには、色々な仕事をしている著名人10余人のコメントが――「非常に感動した」というような――載っていました。
でも私は、素直に感動できませんでした。
ちらしには「彼らはなぜ命がけで毎朝学校に向かうのだろう」という言葉が書かれていますが、映画の子どもたちは将来に希望を持っている。(「医者になりたい」「パイロットになりたい」など)そのために学校に通うのだ、と言う。でも私が関わっている、或いは親の方などから聞いた、社会に出られない青年たちは(いつも頭の片隅にあります)こうした希望を将来に持てない、子どもの頃から抱けない、そして不登校になったり、退学したり、仕事を続けられなかったりすると、一層、「自分の将来には何もない」と思ってしまう。そういう、将来に希望、“なりたいもの”がない青年たちの苦しみ(諦めてしまったり、も)をどう考えたらいいのでしょうか。
子どもの心から大人の心へ
精神科医、田村毅先生の講演を聴き、著書も読んで、考えさせられ、そして納得することが多々ありました。印象に残ったことをお伝えしたいと思います。
まず、他の人と関わらずに殆んど自室で過ごしている青年、少年たち。その生活を本人が選んだのだから親も受け入れてあげた方がいい――という考えに疑問を持っていましたが、田村先生は本人は“自立”を望んでいる、親はそれを信じて関わるべきだと言います。(自立は社会に出て働いて収入を得る、ことばかりでなく、ボランティア活動なども)。
そして、ひきこもっている青少年は、思春期を乗り越えられず、思春期が続いている状態だとみています。
思春期とは、「子どもの心」から「大人の心(社会的自我)」への移行の期間です。その移行には時間がかかります。それをもう少しくわしく言いますと、
o親が、(親のエンジンによって)やる気を起こしていたのを、自分自身のエンジンに切りかえる作業をする
o他者との関係性、自分を大切にしながら、他者と折り合う力をつける
o自己責任・・・ものごとがうまくいかなくても家族やまわりに責任を転嫁せず、自分で責任を負う覚悟を持つ。
o自己万能感からの決別・・・100%の自分でいることを諦め、60~70%でもかまわないと受け入れる
o家族という居場所から巣立ち、ソトの世界に安心できる場所を自らの力で見出す。
ひきこもっている青少年は2つの自我、「子どもの心」と「大人の心」の間で揺れ動いています。
そうした自分の子どもに対し、親はどう関わったらいいのでしょうか。
今の状態を理解する必要はありますが、「大人の心(社会的自我)」に向かう過程にいることを信じ、自立を信じて、少しずつ距離をおくことが必要です。少し離れた距離から支えるようにする。いつでも守ってあげるではいけない、「自分で何とかやらなくては」と思えるようにする・・・。
そして、責任を親が引き受けなくてもいい、ということです。
子どもが親を責めても「ダメな親だ、だった」と自分を責めるのではなく、誰でも、限界や欠点はある、と認めた上で前向きに生きることが大切です。いつまでも責任を親が引き受けていたら、自己責任を持つ大人にはなれない、ということだと思います。
親の安心感、子どもの安心感
でも、親自身が安心感がないと、子どもから距離をとれず、すべて子どもに合わせることになりがちです。そして、親の気持は子どもにも伝わります。
誰でも完璧ではありません。いいところもダメなところも半々くらいにありますし、また相手との組み合わせもあるでしょう。
また、家族に問題があるのも当たり前です。でも、親、家族が一番身近におり、関わる機会が多い。勿論、他の支援が役立つこともあります。親、家族が、カウンセリングを受けたり、親の会で話し合ったりして、親の心の安定を保つことが大切です。
親自身が十分な安心感をもつことが、そして子どもに対する信頼感をもつことが、こどもに安心感を与えます。
安心感が持てれば、自己肯定感が持てれば、子どもも思春期を少しずつ抜け出して、“自立”の方向に行くのではないでしょうか。
なかなか難しい場合も、歩みも遅い場合もありますが、――思春期の中にとどまっていることを理解しながら、子どもも心の奥では“自立”したい気持があることを信じて、今、親ができることは何か――を考えることができれば、と思います。
(参考文献「ひきこもり脱出支援マニュアル」田村毅著 PHP研究所)