2010/06/02

正しい行動から愉しい行動へ

 5月末、内外の社会情勢、ニュースを見聞きするにつれ、心が重くなります。沖縄の基地問題は沖縄の人々を“裏切る”決着になりそうです。韓国と北朝鮮の関係も険悪な状態になって来ました。
 青年たち(男女)も苦しみからなかなか抜け出せない…。(かなり抜け出している青年もいますが)
 先月号では「光と影」について述べました。世間一般が認めているものを“光”とし、個々にはどうしても起きてしまうが、一般には認められないものを“影”として、人生には両方ある――それを受け入れられれば、精神的な苦しみは弱まるのではないか…。
 一人の青年が感想を送ってくれました。(「青年の思い」に載せました)「子供の頃に親から“光と影”の両方があることを教えてくれていたら、もっと素直に生きられたのに。でも気づいた時から、本当の意味での「生きる」が始まる…」と。
 “光”については他の言葉で言えば「世間一般が言うことは“正しい”とする」ことだと言えるでしょう。正しいか、正しくないかを基準に考えてできるだけ“正しい”ことをすべきだ、と子供の頃から植えつけられて来ました。つまり他の人たちの評価を第一に考えてしまう。個々には能力的なもの、気質的なもの、環境的なものが違うわけで、いつも誰でもみんなに認められることができるわけではありません。それなのに、日本人は真面目で勤勉な国民性があって、「努力すればできる、頑張ればできる」と言われがちです。
 真面目であればあるほど、それができない自分を責め、それが精神的な病を引き起こしたりします。
 他から認められる、評価される“正しい”行動をしよう――ということは2月号でも述べた、他者報酬追求型行動(生き方)と言えます。そしてそれに対して自分を自分で認め、自分がしたいことをする。自分が愉しいことをする、という自己報酬追求型行動(生き方)があります。
 本能で生きている動物や文明が素朴であった時代は、他者報酬追求型行動と自己報酬追求型行動の区別はなかったと思います。でも、現在はとても複雑になって来ました。考えてみれば皆が“正しい”と言っても、100人が100人同じ考えではないし、同じことができるわけではない、無理があります。“正しい”と思われる行動よりも、自分がしたいこと“愉しい”と思うことをする――という方向に向かえば、苦しさ、しんどさは弱まると思います。
 それに気づいた青年がいます。職場の同僚と同じように働けない自分を責め、そのようにさせた(と思う)親を責め、そしてまた、親を責める自分を責める、そしてその辛さから過食に走り、またそういう自分を責めてしまう――という悪循環の中にいた、青年。でも、自分は“正しい”ことばかりしようとしている、でも、人と同じにできなくてもよい、できない自分を責めないで自分のために、自分が愉しい思いをするために行動する、働く、生きる――と考えるようになり、悪循環から抜け出しつつあります。
 また、親が子供に「アルバイトくらいできるでしょう、なぜ働かないの?」と言ったりする場合もよくありますが、大人になるまでの過程や、働いた体験から、人がこわい、特に職場の人間関係や集団の中で過ごすことに苦痛、恐怖を感じる、ことがなかなか理解できません。世間が認める働き方、生き方しか“正しい”と思えない…

生きる意味
 テレビで社会学者の上田紀行さんが話した言葉にはっとしました。
 今、日本の社会は不況であり、自殺者も多い。でもそれは経済的不況よりも、「生きる意味の不況」の方が重大だというのです。経済の高度成長期は「よく勉強し、いい学校にはいり、いい会社に勤め、高い給料をもらって、豊かな生活をする」という生きる意味を持てた。でも今はそれを持てない、そして、それに代わる生きる意味がみつからない――というわけです。上田さんが学生に聞いたところ、半数が、「自分は使い捨ての存在」と言ってるそうです。
 それぞれがそれぞれの生きる意味が持てる“生きる意味の自由、自立”が大切、そして、それを可能にする社会の支えが必要だ、様々な意味で弱さを持った人に対して、何としても支え切る社会のシステムが必要だ――とも言っています。
 ある青年が「納得できるような生きる意味が見つかったら、自分は動けるだろう」と言った言葉を思い出します。
 彼は高校生の時に学校の行事のための集団活動が非常に苦痛になって来て「自分はサラリーマンにはなれない、でもサラリーマン以外の働き方を知らない」:と絶望的になったそうです。「サラリーマンとしてお金のために頑張り、競争し、豊かな生活をする」という一般的な価値志向(生きる意味)に違和感を感じたようです。
 その後、アルバイトをしましたが、なじめず、だんだん辛くなり、頑張ろうとしても仕事も続かず、働けなくなって、家にいるわけですが、「中学生、高校生の頃に、サラリーマンだけでなく、色々な職業があり、色々な生きる意味があることを教えてくれたら、学ぶことができていたら」とも言っています。
 それぞれが自分の“生きる意味”が持てる社会、ハンディがあっても、障害があったり、老人になり、自分の力だけでは動けなくなっても、社会が支える、社会に、人に助けられながらも、自分の存在の意味を感じられる――という社会であったら!
 老後も、人に援助を受けて生活しながらも、「迷惑をかけているから愉しんではいけない」と思わないで、「愉しんでいいんだ」と思える社会。そして、生活保護なども、「迷惑をかけるから受けない」と無理をしないで、弱さを持った人を助ける、お互いに助け合うことが同意される社会であってほしい、と思います。
 ある青年の場合、幼い頃から、精神的な弱さを持った母親を助けてあげたい、と思いながら生きて来て、成人して母親と2人の生活を何とか支えて来たのですが、自分も様々な葛藤の中で心の病いを持ち、でも経済的には働かなければならないと頑張って来て、限界に来ている状態になっています。社会制度の援助を受けて働くことを休むか少くして、ゆっくりして愉しさも感じる生活をしてほしい、と思うのですが、抵抗があるようです。頑張ること、母親を支えることに生きる意味を感じていたからかもしれません。自分を大切にするような「生きる意味」に変えられたら、と思います。