2011/02/16

じぶん、わたし

 青年たちと話をしたり関わる時、私の生き方も問われているように感じます。青年たちの悩みは、私の悩み(程度は違いますが)でもあります。かなり生き易くなり、自分のやりたい方向に進んではいますが、日々、迷い葛藤があり、自分を否定したり、気分が沈んだり・・「これだ」「これでいいんだ」というすっきりした気持で過ごせません。勿論、「楽しい」「嬉しい」と思うこともよくありますが。
 初期仏教の長老、スマナサーラは釈迦の言葉として「生きることは苦」と述べていますが、青年たちやカウンセリングで出合った人との関わりの中でしばしば思います。
 どんな時に私は気持が沈んだり不安になったり、「私はダメだ」と思いが起こるのだろう。考えてみると、「わたしはできるはずだ」「こんなはずじゃなかった」と思う時と、計画したものが実現できなかった時、人との関わり、青年との関わりがうまく行かず、怒らせたり落ち込ませたりした時。もっと色々やりたいのに体力、気力が衰えて思うように行動できない時…
 一体何にとらわれているのでしょう。
「生きる勉強」(1)、「じぶん――この不思議な存在」(2)、「この<私>はどこにいるのか」(3)を読みましたが、<じぶん><わたし>にこだわっているからではないか――と感じました。
 青年たち、悩み苦しむ人たち、過去の自分を恥しく思ったり、ひけ目を感じたり、そして今の「働けない自分」「人とうまく交われない自分」にこだわってしまう。気質や心身の力そして今までの体験もあるわけで、できることもできないこともあるはず、なのに人と比較してしまう…さまざまな概念や基準に縛られている…
 また今の自分が<決まった自分>ではなく、変わって行くものですし、できる時もあるし、できない時もある…自然の流れ(他からの支援があったりして)もあるのではと思います。「私の人生、何だったか」とか「このさきもどうせ」ではなく今を、この今を、この瞬間を「しっかり生きよう」という、仏教の言葉を心に刻みたいものです。
他者への関心―つながり
 「他の人にない固有な自分がいる」はず、という自我意識は実体のない概念だ(1)とも思われますし、また<じぶん>とは何か―を考える時、それは<他者>との関わりの中でしか見えて来ない、他者こそがわたしたちの第一の鏡だ(3)とも思います。そして、他者に関心をもってもらうことが、「自分を支える力」「生きる力」になると。でも、それは待つのではなく、自分の方から関心をもつことを始めることによって、他者に関心を持ってもらえる、見守られる、支えられる、或いは自分が他人にとって意味のある存在になる(3)というわけです。
 「自分は人から必要とされないから生きる意味がない」という青年がいますが、まだ若いし、人とあまり関わらないで来てるし、特に人と共に何かをしたわけではないのに、必要とされるのを望んでる―と思います。まず自分が積極的に人と関わる、人を求める、ということが、先ではないかと改めて感じました。
 私たちは、受け身になりがちです。積極的に関わることが、相手に拒否されたら―という不安があって、身をひいてしまう、私はそうなりがちです。でも、相手を追求したり批判するような関心ではなく、自分にとっても、自分を豊かにしてもらえるような気持で関わる―ことであれば、相手も私に関心を持ってくれるだろうと思います。それが私の支えにもなるわけです。
 そうしたことが人と人とのつながりになるのではないでしょうか。
 家に、自室に、殆んどひきこもって親とも話しをしない青年にとっては、一時は、しばらくは自分を守るために心を閉ざしていても、他者の関心が心を開くのでは、と思います。暖かい関心、受容的な関心―そっとしておくだけでなく―を持ちそれを示すことが大事ではないかと思います。(文献「生き方の勉強」アルボムッレ・スマナサーラ、香山リカ対談、サンガ新書「じぶん…この不思議な存在」鷲田清一、講談社新書「この<私>はどこにいるのか」鷲田清一、非売品)
今年の計画、希望
 1月号に今年の計画、希望を書きそびれてしまいました。
 去年はいくつかの計画を立てました。まず「生き生き生きるカウンセリング講座」は共同募金の助成を受けて、開くことができました。市民会館で5回シリーズ(1回4時間)で、充実した内容、学び合いだった、と思います。「パソコン修理室」については、指導してくれるボランティアの方を探しましたが、適切な人が見つからず、また、“修理”というのは難しい仕事だ、ということで断念しました。
 不登校クラスについては問い合わせは数件ありましたが、残念ながら参加希望者はおらず、開くことはできませんでした。でも不登校の児童生徒は大勢いると思いますし、場所もありますし、ひきこもりの問題と密接につながってますし、是非開設したいと思います。どういう要望があるか(開設日や費用)もっとよく調べ検討したいと思います。一緒に子どもたちと関わって下さる方、また御意見、アイディアをお寄せ下さるよう、お願い致します。
 もう一つ、心に関する講座を今年も開ければ、と思っていたところボランティアスタッフをして下さっている小林さんから「DVなどで心に傷を受けた人のための、自分で自分をケアできるような講座をファシリティター(案内役)として勉強したので、そういう講座を開きたい」との要望がありました。青年たちの多くは過去に心の傷を受け、なかなか癒されたり、回復できずに、今も傷つき易かったりしており、また一般の方にもいると思うので、道草の家で開くことにしました。
 また青年の集いも青年たち(20~30代男女)が心の悩み、生きることの根本的な問題を話して、それを他の人たちが一緒に考える、という充実した時間があるのですが、青年の参加が少く、残念にも、また勿体なくも思います。もう少し参加者が増えるよう、工夫したいと思いますので、アイディアをお寄せ下さい。
 青年の集いには青年に限らず、年齢に限らず、生き辛さを感じたり、心のことに関心のある方の参加(一緒に話し合う)も歓迎しますので、利用して頂ければ、と思います。
 最後に運営費について、助成金などを含めて、捻出についてのアイディアや実際に動いて下さるボランティアをよろしくお願いします。