2013/01/11

明けましておめでとうございます                     

 新しい年を迎える時、幼い頃のお正月を思い出します。
 元旦の朝、兄や友だちと一緒に低い山の上にある八幡様にお参りに行き、鈴を鳴らし、手を合わせて拝みました。何を願ったかは覚えていませんが、空気の冷たさと共に清々しい感じになりました。
 新しい年にはっきりした希望は持てませんが、何か新しい変化がありそうな、胸がファっとするような感じがします。まわりの人たちと共に、自分のできることを精一杯行いながら、ささやかなことでも変化のある年にしたいと思います。
 どうかよろしくお願いします。

 
 つながりを求めて・・・
 元旦、特に神社に信仰があるわけではありませんが、毎年神社にお参りし、手を合せています。何となくの習慣です。お正月には有名な神社には大ぜいの人が訪れます。1年に1回お祈りし、お願いするだけでも、気持が休まるのでしょう。私は「この1年、みんな無事で過ごせますように」という漠然とした言葉が浮かびます。人間と動物の違いは、宗教を持つことかと思います。
 人間は昔からそういうものを求めて来たように思います。何か、目に見えないものに守られている、先祖が見守っている、そして、そのもとに、今生きている人もつながっている・・・。つながりを求めている、つながりの中心になるのが、先祖とか神社にまつられている神・・・。
 今、世界中に、沢山の国、沢山の人種が存在していますが、もとをただせば、もとをたどれば、類人猿から分かれた一人の人間だったのではないでしょうか。
 まわりの自然の中に、一つ一つ(一人一人)神が宿る、という思い・・・その神々のもとに、人々がつながっているのを感じるのは人間のみであり、それ故、人間は生きのびてきたのだと思います。でも、その謙虚さが失われた時、自然の造反が襲ってくるのではないでしょうか。


  学校教育(つながりは・・・?)
 道草の家で関わっている青年(彼、彼女)、10代の少年少女(親の相談も含めて)の悩みを聴き、彼らの心の苦しみを感じる時、なぜ、そんなに生き辛さを抱えるようになったのか――を考えてしまいます。主として共通することは、中学、高校(入学してすぐ)で不登校となり、その時の心の傷をひきずり、その時、学校時代に刻みこまれた価値観が、今も大きく影響しているように思います。要因は一つだけではありませんが、感受性が強く、また真面目で、あるだけに、学校教育の問題をもろに、受けたのだと思います。そうした折、「子どもの声を社会へ」という本に出会い
非常に共感しました。子どもオンブズパーソンの著者の言葉を参考に考えて行きたいと思います。
 私が子ども時代、また50年前私が中学校の教師をした頃は、いじめも、不登校もなく、のんびりしていました。でも、私の子どもが小、中学生の頃は、競争意識が出始め、不登校になる子も出るようになりました。それは、経済の高度成長を平行して、高まって行ったように思います。誰でも高校にはいれる機会ができた――ということで機会は“平等”なのだから、あとは本人の“努力”だ、ということになりました。そして学力があれば、いい高校にはいれ、いい大学にはいれる、そして、いい就職ができる、という路線ができ、学校教育の最大の目的は「学力を高める」こと――だという方向に教師も親も進みました。「学力」を高めること、そのための「努力」のみが、子どもへの激励となって来た。それは、日本の経済力を高めることになる、社会全体の価値観と同じです。
 日本は経済成長を続けました。(今は限界になり、成長神話をやめさせねば、という時に来ていると思いますが)

 それで私たちは心豊かな日々、幸せ感を抱いて過ごせるようになったでしょうか?
 不登校の子どもたち、社会に出られない、ひきこもる青年たちの生き辛さ、苦しみを思うと、「学力を高める努力」、に問題があったと、思われてなりません。
 努力すれば、高められる、それができないのは努力しないから、という「自己責任」となってしまい、「努力しようとしてもできない状態にある」或いは「努力しても学力は高まらない」という「弱い状態にあること」「弱いままでいられる自由」を無視することになってしまいました。
 子どもは同じ能力を持って生まれてはいない、ある面では高く、ある面では低くそれぞれの能力、素質を持って生まれています。
 「競争」「努力」「自己責任」には何が抜けているのでしょうか。一人で頑張る―
―というイメージであってそれは他の人を排除すること人とつながることを拒否することになると思います。
 不登校の子、ひきこもる青年の苦しみは、人とつながれない苦しみ、辛さだと思います。 中学校で不登校になった少女の話を聞くとグループに入れないことが辛くて・・・と言います。グループの人たちが話してる、趣味とか、アイドルのことなどに合せられなくて、仲間に入れなかった。また高校入学して、心新たにして、と思っても自分から仲間に入れなくて、数日で不登校。
 それは、本人の問題というより、不登校をしない生徒たちにも本当のつながりを感じなくなり、本当のつながりを求めなくなったのだ、と思います。仲間グループができても「仲間に違う考えを言っても仲間でいられる」という安心感がないし、一人ぼっちの子に声をかける余裕もない・・・

 私たちは、教育を、生き方をどう考えたらいいのでしょう。学校教育は集団の中で人間関係の体験をし、自立に向けてお互いに成長していく――そのために様々な関係性を持ち、分かち合う場であると思います。競争による緊張感はゆるめるべきことでしょう。
 社会生活は競争だけでは生きていかれない。どんな強い人でも、一人では生きていかれない。一人で完結できるものではないと思います。力、知恵のある人は、”それを分かちあうこと”たと思います。(分かち合うために能力を持っている)
 弱い人は弱いままでいられる――助けを求められる、受け皿があるという社会。昔はしゃべれない(苦手な)人はしゃべれないままで、それに合った仕事がありました
。 「学校は仲間に会えて楽しい所」というイメージが取り戻せたら!!(私はそうだった)
 子どもオンブズパーソンの著者は、相談してくる子どもの声を聞いて、それを社会につなげたい――と言っています。
 今苦しんでる子どもの声は、大人になりつつあったり、大人になった(かつて不登校だった)青年たちの声でもあります。 今もなお、不登校やその後のひきこもりに自己否定感を強く持ち、苦しんでいる青少年(彼女、彼)が、それを乗り越え、むしろその体験を生かして生きることができたら、と新年を迎えて改めて願います。
(『子どもの声を社会へ』桜井智恵子著 岩波新書)