2011/06/29

紫陽花に思う

 6月はあじさいがとてもきれいです。通り道の家々の庭に、様々な色合いで咲いています。紫陽花という字が当てはめられているように、紫のイメージが強いですが、それは、うすいピンクから濃いピンクに、また薄い青から濃い青に、どちらの系統も紫がまじっていて、私の好きな色、心がはずみます。
 紫陽花の色はピンク系、青系の種類があるわけではなく、土壌が酸性、アルカリ性の度合いによって変わるとのことで、とても不思議です。根を張っている土によって色が変わる―そしてそれぞれが美しい。花びらは同じ形で。
 人も育った環境、生活している環境で変わる面も多い。勿論、親からの遺伝もあり、様々な違いがあります。親と子は、時代も違うし、環境も違うのに、親は自分の思いから期待、理想を求めがち。それが親子の葛藤、生き辛さにつながる場合が多いように思います。
 子どもが親と同じだと、親の方が安心するのかもしれません。でも、自分をコピーしたような人間がいたら、出会ったら、何か怖いような、落ちつかないような気にならないでしょうか。私の場合も、子どもは私とそっくりでないので安心感があります。でもまた余り違うと、身近な人と思えないかも。
 親子でも、同じでないことに安心感や不安感がある。親の勝手なのか、そのバランスを持てればいいのか。でも、親子でも育った環境と、今生活している環境は違います。ですから、その違いを理解しがたい。十分理解できなくても、“違い”があることをまず受け入れる―ことができたら…。また、親子でも違うのに、社会の人々の間も環境がさらに違う。一層違いがあります。
 勿論、社会生活を送るのに共通なもの、共通な理解も必要。でも、それが余り、きっちりと多くを求めると、生き辛さがつのります。
 いじめなども、自分と同じでないものへの反発が原因の場合が多いと思います。もっとゆるやかに、それぞれの違いが受け入れられる社会、学校であったら、と思います。
チエを持つ存在故の苦しみ
 先月号では「人間は一つの有機体」だと述べました。でも、他の有機体と違って、言葉があり、思考力、創造力、抽象化する力があります。
 それによって科学が発達し、文明はどんどん発展しました。
 言葉――知ともチエとも言われますが、高史明氏の言葉を借りれば、「人間は“いのち”の論理の他にもう一つ、言葉のチエによって生きる存在」だと言えます。
 他の動植物のように、いのち、有機体の論理のみで生きられれば、精神的な苦しみもなく、人が人を殺すのを良しとする戦争などもなく生きられるでしょう。
 原始時代は少数の家族の集まりであり、その助け合いの生活から、多くの家族が集まって来るにつれ、支配者が現れ、欲望も大きくなり、争い、戦争が起こり絶え間なく続きました。科学の発達とともに武器も高度となり、悲惨さは増幅して来ました。
 一方、科学が発達するにつれ、効率的に仕事ができるようになり、物も豊富になり、様々な遊び、様々な楽しみも増え、外国へも宇宙にも行かれる、となり、努力すれば出来る、頑張れば社会的地位も高くなる…というような。何でも誰でも、頑張れば出来る――というような錯覚に陥った。そして、出来るはずなのに、それが出来ない自分はダメ、自分でも人からも認められない!――という苦悩が生じて来ました。
 科学が急速に発達し、社会が複雑になれば、皆が皆、そのペースに合わせ、その中でどんどん伸びて行くわけには行かない。生まれつき、内向的、繊細な人は、競争について行かれない。クラスの友だちは“仲良く”“助け合う”というよりも競争相手であり、そうしたことが受け入れられない子供は不登校になったり、人間不信になって行くでしょう。
 また、日本人はもともとは農耕社会であり、協力が必要なため、“和”を尊び、皆と同じように、という社会風土があります。多数の人がやっていることに合わせられないことに従って、“みんなに認められない”ことに、自分を否定的に感じてしまいます。無理をしてうつ病になったり、ひきこもったり、或いは虐待する親もやはり他と比較して「何でみんなができることができないのか」と怒りになってしまうのではないかと思います。

つながりを持ちたい
 一方、物が豊かになると、お互いの関係も“一緒に”“お互いに助け合う”ということが少なくなり、物に頼ることが多くなって来たように思います。昔は子どもも家の手伝いをしたし、(食事も大勢で一緒にしました。)ゲームもなかったので家族、兄弟が一緒に遊んだり、大人も子どももカルタやトランプをし、テレビも一台でした…。コンビニもなかったので、おしょう油など隣に借りに行ったり…。
 今は一人でも生活できる体制が整っています。わずらわしさがない代わりに、関係を持つ機会がなくなった、と言えるかもしれません。
 そんな中で、お互いに必要とする、必要とされる関係も感じられなくなり、“ひきこもり”の状態になって行く青年も多いかも知れません。“特別にできることがあるから”、必要とされる、というのではなく、それぞれがささやかなことでも、できることをして、また、“一緒にいるだけでもいい”、人の暖かさを感じられたら、と思います。
 今回の東日本大震災でも、被災者が避難所生活を穏やかに過ごしている情景を外国の人たちが見て驚いている、というニュースを見聞きしたが、日本人は(人間には)困った時はお互いに助け合おう、という気持がもともとあったのだと思います。が日帰りでも支援活動に行っているボランティア、自分が今持ってる力を、少しでも使いたい、必要なことをしたい―という思いがあるからでしょう。“絆”という大げさな言葉でなくて、関係、つながりを持ちたい気持は、本来人間にはあるのでは、と思います。

2011/06/06

一日の鴬

 5月半ば、朝方、窓の外の鴬の声に目覚めました。他の鳥の鳴声は区別がつかないことが多いのですが、「ホーホケキョ」という声は、はっきりと分かりました。今年も来たんだ、毎年、遅い春に、一日か二日鴬の声がします。どこから来てどこへ行くのか分かりませんが。青年の集いでその話をしたら、ある青年も、4月頃、父親の畑で(千葉市の外れ、借りている農園)うぐいすが鳴いた、と言いました。早春の鳥と思われますが、千葉では晩春のようです。
 うぐいすの声は子どもの頃から聴いてますし、懐かしさを感じます。毎年来てくれるんだ――という思い。小平の家に週末帰ると、猫が待ってくれてます。膝に乗ったり、布団にはいったりします。
 動物はほっとしますね。
 東北大震災で犬や猫を残して、避難せざるを得なかった人が多かったのですが、そういう方たちはどんな思いだったでしょう。残された犬や猫たちはどんな思いで過ごしたでしょう。後からペットとめぐり会ったり、新しい飼い主が決まったりしているニュースを見ると胸がなごみます。
 でも、原発の事故のため、酪農家が、急いで避難したために多くの乳牛をそのまま残して避難し、1ヶ月(?)位して戻ってみると、放した牛は、そこここに何とか生き延びた姿を見せたが、放さなかった牛は、重なるようにして死んでいた、というニュースを見て、胸がつまるような思いがしました。人間の勝手?で無残な死に至らせてしまった。
 自然の状態から、余りにもかけ離れたものを作り出す、人為的な過度な操作をしたものに、事故が起きた場合、人間の力でなかなか修復できない――ことを見せつけられたように思います。
人間は一つの有機体
 青年の集いで青年が言った言葉、「体に心地いいことを少しずつやって行けば元気が出る」ということ、自分の体験を通して感じたこの言葉は、カウンセリングの創始者ロジャースの著書「人間論」に書かれていることを思い出させます。「人間はいろいろの有機体の中の一つの種である」。動物、植物が、類、種に分かれていますが、同じ有機体の中の、人間という種だというわけです。(燃やせば、動物も植物も人間も、C、O、Hという元素になります)
 松の木が、枝を切っても伸びて行くように、もやしや草が明るい方に伸びていくように、人間も元来、明るい方、いい方向に進む方向性をもっている。ただし、それは、人間特有の頭脳だけで考えるのではなく(意識的思考だけでなく)、全身(有機体)で感じるものだ、というのです。
 ですから、頭だけで意識的思考だけで考え、行動しようとしても、有機体が求めているもの、経験していることと一致しないならば、矛盾が生じ、葛藤が起こり、神経症などの症状が出る。「~すべき」と頭で考え、「頑張らないと」と無理をすると、精神的病にひき起こすことにもなります。
 人間特有の能力として言葉やイメージ、抽象化の能力があります。私たちの生活に効果的に役立つこともありますが、自分自身を欺くのにも役立ち、経験していることを否定し、歪んだ自覚にもなります。
 また、それは創造性と密接に関係があり、意識的思考にだけ頼るのではなく、全体的、有機体的反応を信頼して進めることで、創造性が発揮できる。例えばアインシュタインが相対性理論に至ったのも、有機体的反応、感情(「言葉では表現するのは難しい」と言っています)が示す方向に従ったからで、理論を後から考察したそうです。

できることをする
 先月号「青年の思い」の中で、精神科医フランクルの言葉「…むしろ人生が何を我々に期待しているかが問題だ」という言葉が書きましたが、それも、全身で有機体として感じられる、身近な、無理しないで“できること”をして行くことが大切だと思います。
 今回の震災では多くのボランティアが様々な形の支援をしています。人間には「何か、自分のできることをしたい」という自己実現欲求があります。あまり無理でなく、自分のできることを考え、行ったのだと思います。(一日のことでも)
 「働くのは当然」「働けないのはおかしい」―と親や一般の方は思いがちですが、“社会で働くこと”を目標にし過ぎると、とても遠くて、とても無理だと思ってしまい、「何もできないんだ」「働けない自分はダメだ」と思い、何もしないで、できることもしないで過ぎてしまうことが多いのではないかと思います。
 SAT療法(筑波大学教授、宗像恒次先生らが開発)に「行動目化支援カウンセリング法」があります。
 辛い思い、怒りとか、不安、悲しみなどの感情があった時、その感情を、「何か期待通りに行かない時の感情」「見通しが立たない時の感情」として見つめて行きながら、「本当はどうしたいのか」「どうなりたいのか」を考えます。そして具体的にどのような行動ができるか、直感で考えます。実行自身度が80%以上になるような、できそうな行動を考えて行きます。始める時には思いつかなかったことが思いつき、浮かんで来たりします。
 「自分が本当に求めているのは何か」「何がしたいのか、何ができるのか」有機体である全身で感じながら、感情を大切にしながら、できることをして生きたいものです。