2011/03/09

命のつながり

 先日、東京国立博物館で開かれていた「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」を見に行きました。平山郁夫の絵は何度か見て、興味を持ってましたが、薬師寺の大ふすま絵が展示されているというので、是非、という思いで出かけました。
 まず入り口近くにあった「天堂苑樹」群青の中に淡い緑の林に囲まれた釈迦と弟子たちがうすい黄茶色にぼんやりと描かれている絵、群青の色の美しさ、深く透明な、やわらかく包み込まれるような色に魅かれました。
 薬師寺のふすまに描かれた、「大唐西域壁画」は玄奘三蔵がたどったシルクロードを平山氏自身たどりながら描いたという、非常に雄大な絵。砂漠の中に同じ色の、寺院の後と思われるものがそびえている、或いは砂漠に埋れかけている。何枚かの絵の後に「西方浄土、須弥山」という絵、ヒマラヤ、カラコラムを描いたものですが、雪を被ったけわしい山の頂、峰々。その後に、アフガニスタンの内戦で壊された、バーミアン石窟。
 こうした絵や壊れて頭だけになった仏頭や、平山氏が保存のために引き取った数々の仏像などを見ながら、2500年前に釈迦が開いた仏教、教えが、人々に伝わり、千数百年前には、玄奘三蔵が、17年かけて、インドまで仏典を求めた、という、シルクロード、そこには仏教を信頼した人々がいて、寺院を建て、仏教を造った、でも破壊されたり、朽ちて行い、でもまた今も、それらを大事に思う人々がいる、信仰は受けつながれている。日本にも伝わりました。
 なぜ人は苦しむのか、「老、病、死」のある人間の生、過酷の環境にある人々は、その答や生きる意味を救いを求めた、そこに信仰があったのでしょう。
 そうしたことを、展覧会を見ながら感じました。何千年も前の人々、とつながり、遠く離れた人々とのつながりを実感しました。
 さらに、オアシスにいこう人々の絵や、宵闇の濃い郡の空や木々、池の絵、空には月が輝いている――そのような絵を見ながら、「人間は人間だけで生きているのではないのだ」とふと思いました。木々や草や花があり、鳥や虫がいて、ラクダや馬など動物もいて、土や水があってこそ人間は生きられるのだと思いました。そして、空気や空、太陽や月があってこそ…
 人間社会の苦しみ、人間同士のいさかい、私自身の苦しみ、は一体何なのでしょう。文明を発達させて来た人間は自分は“偉い”と思う、不遜な気持があることが、かえって、現在の私たちの苦しみを生み出しているのかな――とも思えて来ました。

対人恐怖
 青年の集いで、ある青年が「対人恐怖がなかったらどんなに行き易いだろう」と言いましたが、「ひきこもる」青年、ひきこもる傾向の人の最も多く、最も強い症状は“対人恐怖”ではないかと思います。
 私も未だに対人恐怖の傾向があります。知らない人、大勢の中では非常に緊張して、思ったことが言えません。
 対人恐怖―人がこわい、緊張する―日本特有の病気と言えます。アメリカの精神障害マニュアルには、それに当る英語はなく、日本語のローマ字で「Taijinkyofu」となってるくらいです。
 日本特有なものとして、私たちを苦しめる対人恐怖がなぜ起こるのでしょう。
 外国との違いを考えると、外国映画を見た時に、欧米でも中国でも、親と子が、激しい議論、けんかのように言い合いをしている場面によく出会います。両方ともが負けてはいない、というような自己主張をします。でも日本では、口答をすること自体を封じる、子どもの言い分を聞こうとしないことがしばしばのように思います。子どもに自分の思い、気持を表現するようには育てない、自己主張、自己表現の力の大切さを感じない、大人になれば、きちんと自己表現をしなければならない場に出会うわけなのに。
 それは、親自身も自己主張する、自分の意見をきちんと言うようには育てられてない。まわりと違う考えを持っていても、まわりと合わせるように、育てられた、まわりに合わせる、協調すること(そうでないと嫌われる…)「和の文化」が続いて来たのです。
 「人はそれぞれ違う考え、気持ちを持ってよい」というより、子どもをまわりから評価されるよう“いい子”に育てようと、まじめな親は思いがちです。
 道草の家に来ている青年、訪問している青年は、相手、人、まわりのことをとても気にします。相手は、人は、自分をどう思うか、嫌ってはいないか、そして自分の言動が人を傷つけはしないか…自分の思いをそのまま言えない。本当の思いを抑えている自分と、表面に出ている自分、2人の自分――それが辛くなって、人を避ける…人と交わりたいと思い、居場所などに出て来ても、二人の自分に耐えられず、またひきこもる――ということもあります。
 そうした青年が外国に行くと、気持が楽になるそうです。外国の人はいつも本音を言ってるので、「内心はどうなのか」と思う必要はないし、意見などが違っても、不快な感情にならない。違っても当たり前と思える…自由に物が言える、親子関係――自分の言ったことが受け止めてくれる、(全部親が子どもの言うことを、叶えるというのではなく)、親は信頼できる、それは「人は信頼できる」ことにつながりますが、親が信頼できない時、他人は信頼できない「怖い人」となります。
 人が信用できないという思いに、いじめが加わると、強いトラウマとなり、非常に対人恐怖が強くなります。また対人恐怖には両面があります。自分は人に、嫌な人間だと思われているのではないか、というのと、自分は人を嫌な思いにさせてるのではないかというもの。…それに苦しんでいる青年たち。そして、実際に出会ってない社会の人々、世間に対しても「働かない」自分を否定的に見ているのだろう、という思いも、苦しめます。普通の生活ができない苦しみ、をも抱きます。
 どうしたらそれから脱することができるでしょう。
 親との関係、「いい子」でなくてもいい、自分の気持、感情を素直に出せる親子関係になることが、理想ですが、それだけでは時間がかかり難しいでしょう。それには、一つはカウンセラーや、仲間との交流の中で、自分をそのまま出しても大丈夫だ受け止めてもらえる、という体験を重ねて、自分と他者への信頼感を築くことだと思います。
 もう一つは、自分にマイナスの言動があった時、「気づかなかった、失敗した」など、自分を責め否定するのではなく「完璧でなくてもいいんだ」と、努めて思うようにすることだと思います。それには自分を自分の気持、感情を大切にすること、「青年の思い」にもあるように無理をしたり、感情を無視するのではなく、できるだけ心地よい時間を持つことだと思います。