2008/05/01

楽しむ気持ち

 4月は結構雨が多く、木々の柔い、うす緑の若葉が、雨の中にほのかに輝いていて、ほっとする感じでした。5月になると、緑も濃くなって来て、日ざしも明るくなって来ます。どこか、自然の中に歩きたい気持ち。
 でも、気持ちがなかなかその明るさについて行かれない青年もいます。生きることが辛い、いや苦しい(働いていて苦しい、働けなくて苦しい)そして楽しい思いをすることなく過ごしている青年たち・・・のことを考えると心が痛みます。
 なぜそうなったのでしょう。「無理なことはしなくていい」という雰囲気がなく、親やまわりは「大人なんだから、働くのは当たり前」と言い、精神的に働く力がついてないのに、「働かない」ことを認めない。そして、働いていないと楽しんではいけないように思ってしまう青年もいます。外国では「人生はまず楽しむもの」という人生観があるのに対して、「日本では働くことは、厳しい、人生は厳しいもの」という人生観が最初にあります。
 親自身が、楽しむことを優先する生活、貧しくても、質素でも、将来のこと、未来の裕福な生活のみを考えずに、今を楽しむ生活――お金を使わなくてもできる筈――をしていたら、そして、「人生は、生きることは楽しいんだ、楽しんでいいんだ(勿論、そうでない時間もありますが)」という姿を見せて、子供が楽しむことを大事にしていたら、青年たちは苦しいばかりの生活ではなかったのでは、と思います。楽しむことは生きるエネルギーになるはずなのに。
 どうしたら苦しんでいる青年に手を差しのべられるでしょう。

和田 ミトリ

生きる支え

 <青年の思い>の中でも青年が言ってますが、皆さんにとって生きる支えになっているのは、どんなことでしょうか。今まで生きて来た、生きるエネルギーになった心の支えは何でしょうか。
 心の支えがあれば、辛いことがあっても生きられる――と思いますが、そういうものが何もないために、自殺してしまう。自殺はしないけど、前に進めない・・・「心の支え」を自覚しないほど、生きるエネルギーがある人もいるでしょうが、意識してなくても、自覚してなくても、何かありそうです。エネルギーがない場合は、何らかな支えが必要かもしれません。
 「働く」ことが現実的に(実行できると)は考えられなくなった青年、自分には親から心の支え、生きる意味を与えられなかった、子供の頃育つ過程に形成されなかった。そして今の社会は困っている人、悩んでる人、働けない人を“支えよう”とはしない社会だ――と思う青年。一方では“助け合う”ことが大切だと言われながら。
 まず、親から与えられる、育まれる、生きるための心の支えは?“自分は生きていていい存在だ”と感じられること、それは親から、まわりから愛され、認められれば、或いは、生きることを肯定し、楽しさとか生きがいを感じている親の生きる姿を見て、“生きることはいいことだ”と感じることではないでしょうか。或いは、親の言葉で生きる意味を感じたり・・・
 私の場合、思春期から親の過保護、過干渉に反発を感じながら、それを言えず、悶々とするうち、コンプレックスの塊になりました。でもその割には積極的に生きたと言えるかもしれません。それは、自分に合った仕事をして充実感を感じたい、という気持ちがあり、好奇心も強かったからかと思います。
 親から無条件に愛された、という感覚はないのですが、(そのため、否定的なことを言われると動揺します。だいぶ軽くなりましたが)子供の頃楽しく遊んだ、ということで生きる楽しさも感じられて、人間を、人生を悲観的に考える面と、人生はいやなこと、辛いことばかりではない、と思う面がありました。何度も挫折しながら「もっと自分に合った仕事、活動がある」と思ってきました。諦められないものがあったようで、それがエネルギーになったかもしれません。
 両親の仲が悪かったり、余りにも人に気を使ったり(自分を大切にしない)する親を見て、「生きることを肯定できない」感じになることもあるでしょう。
 そして、日本の社会は、精神面の弱さ(と言っていいか、感受性が強く、考え、悩むタイプ)を認めない社会です。「働けない」人とか精神的な病気になる人を受け入れない、優しくない。思い悩み、進めない人に手を差しのべる雰囲気でない。「社会の人たちは、自分のような人間を認めない、拒否している」――“支えられてる”という感覚がないため、安易に自殺してしまうのではないでしょうか。
 「自己責任」という言葉がはびこっています。ひきこもる青年を始め、ニート、ネット難民など多くの若者が先の見通しのないまま辛い思いですごしているのに、自己責任の名のもとに放っておくような。社会全体で“助けよう”という気運にはなっていないことを残念に思います。

和田 ミトリ