2012/03/07

3月を迎えて

  談話室で青年たちと話し合ってる時、鳥の鳴き声が間近かに聞こえ、窓の方を見ると、少し大きめの小鳥が手すりに止まっているのが、くもりガラスごしに見えました。頭を動かしているのが私たちに挨拶しているような仕草に見え思わず顔がほころびました。こんなことは始めて。春になったからかな、と思いました。

 2月は千葉も小雪が降ったり、例年にない寒い冬でしたが、3月、ようやく春が近づいたようです。でも3月は、去年、東日本大震災が起こった月、もう1年になります。親戚や身近かな人が被害に合ったわけではなく、具体的な行動もしないまま、距離をおいた感じで過ごしていることに申し訳なさを感じます。ただ一向に復興の兆しが見られず、被災地のガレキがそのままであることは心が痛みます。ガレキを受け入れる県はごくわずかです。

 そして、原発事故、放射能の問題は今もなお大きな不安です。納得行くような方向は定まらず、「脱原発」の声は多く聞こえ、その理由を述べる本も多く出ていますが、政府の方にはなかなか届かないようです。高レベルの放射性廃棄物の処理もできない状態ですのに。そして子どもたちのために道路や校庭の除染も少しずつ行われていますが、その中の放射能はどこに流れて行くのでしょう。

 福島の小学生が世界中から来た励ましのメッセージに対し、感謝の気持ちを絵や言葉で書いて送ろうとしている様子がテレビで放映されていましたが、痛々しい感じがします。

 子どもたちは放射能の問題に安心したわけではなく、また世界の人々も、日本の、原発事故の取り組みを安心して見ている訳ではないと思います。このような大問題をひき起こした日本人としてどう考えたらいいのでしょう。

 多くの人は、放射能は怖い、原発はない方がいいと思うだろうと思いますが、国民の総意にはならない、決心できない。それは根本的な価値観を変えない限り難しいのではないか、と思います。

 私たちは、経済的豊かさ、物の豊かさ便利さを求め、それが幸せだと思う価値観のもとに、高度な科学技術を駆使して自然の営みにそぐわないやり方で、物(電気も)を作り出した、自然を支配し、自然を奪い取ってもいい、という思い上がった思い、価値観で。その結果、原発を作り出し、事故が起きたのではないでしょうか。「想定外」という言い訳はできない、と思います。人間が自然に対し優位に立つ訳ではなく、自然の一員、宇宙ができて、生物が生まれて、人間が生まれて・・・長い長い期間の中に、人間が現れたに過ぎないと思います。

 経済的、物質的豊かさが幸せだ、という価値観ではなく、そして、自然に対して畏敬の念を持ち、自然の営みに沿って生きる、という価値観を持ちたいものと思います。

ひきこもる青年の多さ

 ひきこもる青年の居場所を開き、青年や親の方と関わる日々、適切な関わりができてるだろうか、役に立ってるのだろうか、とよく考えます。自分の生き方、考え方が問われます。

 私は高校生頃からコンプレックスが強く、思い悩むことが多く過ごして来たので、青年たちや悩んでる人、生き辛さを感じる人とは重なる部分があるのを感じます。憂鬱感を感じることがよくあるし、対人恐怖もあり、特に電話をかけるのに緊張して延ばし延ばしにしたりします。自分がしたいことを思うようにできない辛さ、自己否定感、そういう人の辛さ苦しさが割と分かります(勿論それぞれですので「よく分かる」とは言えませんが)。親の方や一般の方が「頑張って働こうと思えば働けるはずだ」とよく言いますが、私はそう思いません。「やらなくては」と思いながら、意欲や自身が出なくてなかなかできない、大げさに言えば、「自分との闘いかな」と思う時があります。

 ひきこもりの問題は前ほどメディアに取り上げられなくなりましたが、100万人とか150万人とも言われ、その数は非常に多いし、やはり個人の問題というより社会の問題が大きいと思います。社会の縮図かもしれません。

 60代の両親と30代の息子が餓死したニュース、民生委員は「30代の息子がいるから大丈夫だと思ったと」と言っていますが、多分、息子は、“働けない”、外へ出られない、ひきこもりの状態だったのではないかと思います。

 全国で150万人という数から判断すると、親や本人が居場所や親の会、相談機関に行かない場合が非常に多い(2/3以上?)と思われます。(居場所や親の会の数は、非常に多い、とは言えませんので)

 目立たないようにひっそりと暮らしているのでしょうか。働いていない、ひきこもっていることを恥ずかしい、と思って相談にも行かない、「人に相談したいと思うような人」に対する信頼がない、人間関係がないのでは、と思います。親自身もひきこもりの心の状態では、と思います。また親子の関係も、「子どもの問題なのだから、子どもの責任」と思ったり、親子のコミュニケーションもなく「どうしようもない」と諦めてしまう―という場合が多いのでは、と思います。

 家庭の中でも、近隣でも人間関係が希薄になっているように思います。

 戦後、民主主義のもとに「個人の自由」が大切だと言いながら、本当には自由ではなく、まわりを気にし、まわりと違うことを言ったり、したりすることを怖れる・・・そして人に合わせたり、比較する・・・。

 私たちは一体”どう生きたい”のでしょうか。

生きること、とは

  「どう生きたいか」を青年たちに問う前に「今、自分にとって生きるってどんなことか、どんな感じか」を尋ねてみました。「青年の思い」の所に載せましたが、「難しい」と言いながらも多くの青年が答えてくれました。簡潔に、また気持ちのことを表現しながら。

 本当にそれぞれです。悩み苦しんで来た青年の言葉だな、と思います。そんなに意識しなくても、生きることに必死だったと思います。自分の辛さに向き合ったり、耐えたり、そして少しずつ乗り越えたり。マイナス(と思われるだけですが)の自分を肯定しようとしたり。感性が豊かであり、繊細である故と思います。

 青年たち(とは限らず誰でも)はそれぞれの能力、個性を持っています。人とくらべないで、自分の持てる力を発揮しながら自分自身を生きてほしいと思います。