2011/08/02

窓の外、希望

 8月号の文章を書き始めようとしていたら、鴬の鳴き声がしました。夏に鳴き声を聴いた記憶はないので、少々驚きです。いつも目覚めの頃、まくらもとの窓の外で鳴き声がすると、「今日は天気がいい、雨ではないな」と思います。
 蝉の鳴き声もし始めました。鳥と蝉の声がするので、空が見える窓の方に行くと、鳥が蝉を追いかけてるのが見え、蝉が方向を変えると、鳥はそのまま飛んで行きました。鳥は食料として蝉を追いかけたのでしょうが、鳥と蝉が遊んでるように思われ、人間や動物と同じように遊び心があるのでは、とふと思いました。
 7月もあっという間に過ぎ、会報の打ち込みをしてくれる青年(女性)と「すぐ会報の打ち込みの日が来るわね」と話をかわします。会報は切羽つまらないと取りかかれないので、いつも「うまくできるだろうか」と不安も感じますが、同時に新たに出来上がる喜びも想像します。原稿が打ち終わり、8ページに何とか収まると、「今月もできた!」という思いで、3人で笑顔をかわす。そして、青年(今は女性)が描いてくれたカットを各頁に配置できた時の嬉しさ!
 心理的に或いは経済的にも難しい課題を抱えた青年たちの対応を(通院しながら働き、親の世話をしている青年もいます)、考えると胸が重くなりますが、会報作りなど変化があることで救われるのかな、とも思います。
 「問題を解決しなければ」とそればかり考えたからと言って、解決できるわけではない場合もあります。「今を大切に」とよく言われますが、少し先のことに期待し、希望、楽しみを考えることは、心を軽くし、エネルギーを生み出すと思います。(頑張る、のとは違いますね)
 「青年の思い」の中でも「希望」という言葉が出ました。
 そして、もっと先の未来に夢を持つことも大事かと思います。道草の家の将来を若い人がスタッフやボランティアとして、活発に継続してくれることを夢みています。
 今勉強会に来ている青年や青年の集いに参加している青年たちが後輩の青年、不登校の生徒の話し合い手や相談相手になる―ことが考えられます。
「認められたい」欲求
 人は本質的に人から認められたい欲求があるのでは、と「『認められたい』の正体」
(山竹伸二著、講談社)を読みながら思いました。人の精神的な苦しみは、「認められたい」欲求が満たされなかったり、歪んだりしたことによる場合が多いのではないか、こういう視点から考えてみたいと思います。他から承認が得られることは自分の存在価値が認められることにつながると思われます。(山竹氏によれば)それは「親和的承認欲求」
「集団的承認欲求」「一般的承認欲求」の三つの形があり、またそれは相補的な関係にあり、人はそのバランスの中で生きている―というわけです。
 まず、生まれたばかりの赤ちゃんは母親から授乳や世話を受け、何もしなくても自分の欲求を無条件に満たしてくれる、という母親や家族からの「認められている」という親和的承認欲求が満たされます。でも、だんだん育つ中で動き出したり、自分で食べ出したりすれば、全て思うようにはさせてもらえない、でも母親や家族に十分認められていれば、我慢することを覚え、自分の思いと人の思いの違いも感じて来ます。
 そして幼稚園にはいり、集団活動をするようになると、集団に合わせることも出て来ますが、母親の愛情を信じている安心感があれば、「集団的承認」の獲得にとりくむことができます。でも学校にはいるにつれ、その集団の嗜好や価値観と余りに違う時、無理に合わせようとすると精神的負担が大きくなり、合わせられないと集団から認められず、「集団的承認欲求」が満たされず、それも大きな苦痛になります。不登校になるきっかけは、このことが最も多いと思われます。
 職場においても「集団的承認欲求」が満たされるかどうかが、そこに居易いか、意欲が持てるかに大きく影響するでしょう。
 さらに、集団を超えた、一般的な視点から認められるかどうかも、生きる上で重要になります。キリスト教のように神が頂点にいて、神を信じ、神の教えを守っていれば、神に認められている、「自分の存在価値」が認められているという思いがあれば、精神的な安定が得られ、集団的承認をそんない求めなくてもいい、と思われます。
 でも、そういうものがなく、多様な価値観のある、日本の現代社会では、集団的承認欲求が満たされないと精神的不安定になり、生き辛くなります。
「一般的他者の視点」が弱く、自分で公正な判断ができない時、誰かに賛同を得なければ自信が持てない。それが、中、高生のグループから離れられない、そしてグループから疎外されれば、不登校にならざるを得ないということになるでしょう。
 私自身のことを考えると、子供の頃から母との葛藤が強く(養女ということもあった)、親から認められないとの思いが大きく、親からの「親和的欲求」は満たされなかった。でも、親友はできて高校、大学、社宅時代も親友はできました。(親友も「親和的承認」にはいります)。職場やボランティア活動では認められない思いがよくありました。個人的に親しくなる人はいましたが。
 自分で自分を認められるようになりたい、受容できるようになりたい、という思いでカウンセリングを勉強しましたが、今だに、「失敗して人から認められなくなるのでは」というような不安がよぎり、或いは人になかなか反論できない、人に対する怖さが抜け切れないようです。
 でも、私はある程度補い合えているのかなと思います。「役に立つことをしたい」と思い、色々活動してきたのも、親和的承認欲求が満たされなかったことの補いかもしれません。
 青年たちは「嫌われてるのではないか」と思ったり、また、とても傷つき易い。それは子供の頃から、他者からの承認欲求が満たされず、自己肯定感が低いためでしょう。どこでつまづいたのか、親からの親和的承認欲求が満たされない場合もあり、(母親が不安定で、自分が母親を守ってあげなければ、と思ってた青年)、また学校でいじめに合ったり、グループにはいれず疎外感を感じたり。そして「不登校だった」とか「ひきこもっていた」「働いていない」という一般的他者からの承認も感じられない、満たされない、という青年たち。今は仲間のいる「道草の家」という集団の中で、少しずつ集団的承認欲求がみたされるようになり、だいぶ元気になった青年もいますが、まだまだ難しさを感じます。
 ところで、最近の新聞で気になる記事があるました。日本の青少年研究所が行った「高校生の心と体の健康に関する調査報告」(韓国、中国、米国、の4カ国)によると、「自分を価値のある人間だと思うか」との質問に、日本は、6割強が「全然そうではない」「あまりそうではない」と答え、米中韓では、「そうだ」「まあそうだ」が7割強~9割強でした。
 なぜそうなのか、「承認欲求」と関連あるかもしれません。私たちの「承認欲求」について、もっと考えたいと思います。