2014/03/01

里海

 先日、「里海」という言葉をテレビの番組「里海SATOUMI――瀬戸内海」で知りました。



 「里山」については、かなり前から「里山をとり戻そう」という活動もあり、ずっと以前ですが参加したことがあります。



 「里海」は、人と自然が共生する沿岸海域のことで、高度経済成長期に工場の排水で赤潮の大量発生などで、“瀕死”の海に化した瀬戸内海が、美しい海をとり戻した、という内容でした。



 瀬戸内海は13年間過ごし、子育てをした(長女が11才まで)所で、思い出も多い所でもあります。



 高度成長期まっただ中で、夫は石油化学の工場に勤め、家族は近くの小高い丘の上の社宅に住み、そこから毎日、工場と海を見ていました。そして工場の排水の公害が問題になって行き、同時に瀬戸大橋が本州と四国を結び、「夢の大橋」として、喜びの声もあがりました。



 その後、千葉の方に移り、瀬戸内海のことは遠くなりました。



 テレビでは「瀕死の海といわれた瀬戸内海がなぜよみがえったのか」――海の中に様々な生き物が泳いだり歩いたりしている姿が美しい映像で描かれていました。



 それは、漁夫たちが「カキ筏」を作り、カキを養殖することでカキの濾過能力を発揮させたことによるものです。また海草の種をまき、増やすなどの努力も。



 カキや海草などが海の自然を復活する――ということを、その地域の漁師の人たちが意識して努力した、ということも素晴らしいですが、自然そのものが自然を復活させる(もともとあったわけですが)、自然の力はすごいな、と思いました。



 つけ加えるならば、カキ筏で作業している青年を見て、社会に出られない青年も、ああいう環境で過ごしていれば、ああいう姿でイキイキと仕事ができるのに――と思いました。



生きる価値と意味(2)



 先月、ロゴセラピーの教育観を述べましたが、分かりにくかったかと思います。



 親も教師も、子どもに伝えたいことを実践しているか、「自分らしく生きるのに必要な基本的な生き方」をしているか。日々の生活の中で”意味”を感じ取れるか――ということが求められる、ということですから。



 私自身も関わっている青年に対しては親や教師に近い立場におり、問題を感じたりする時、「これには何か意味があるのでは?」と、なかなか向えず、答えを見つけられず、落ちこんでしまいます。



 大人になって長くひきこもっていると(他の人と殆んど交わらない、或いは仲間と交わっても社会に出られない)、親も子もこうした状態を社会はなかなか受け入れてくれないだろう、と思いがちで、社会に出て仕事をするなり活動することでなければ、”生きる意味や価値”はない、とどうしても思ってしまう。仲間と交流できれば、それだけでもよい、と思う親の方もいるようです。



 本当は社会に出れば自分の能力を発揮できるかもしれない、でも社会に出るのは、人と交わるのは怖い、という青年もいるでしょう。日々の生活の中で「意味や価値」を親子で見出すのは難しいかと思います。



 でも、ロゴセラピーの教育観は大人になる前の子育て中の親や教師に向けて、「基本的な生き方」を考えてほしい、というものですから、10代のお子さんを持った親の方には比較的受け入れ易いかと思います。「ロゴセラピーを学んで、親も子も一緒に生きる意味を見つけることが元気になることだと思います」というメールを頂きました。



 そして、ロゴセラピーでも「責任」ということも大事なことだと言います。子どもの頃から「責任」をもつ体験、自由に選択したのであれば、その結果に責任をもつ――ということ。また、子どもも、それぞれの時期、それぞれの状態で才能に応じて「何かをする課題と責任」があることを体験する必要がある――ということです。



 私は子育て時あまり“責任”ということは言わなかったように思います。私自身も思春期親から「ああしなさい」「こうしなさい」と、言われたことをして、「責任」をもつという意識はなかったと思います。



 大人になって、だんだん嘘をついて言われたようにはしなくなりましたが、それは自分で責任をとるしかなかった、とも言えます。



 いつも親や教師の言う通りにして、自由に選択できなければ、「責任を持つ」ことも体験できないでしょう。



 そして「それができるかできないか」、ではなく「やりたいかやりたくないか」を大事にすることがその人の意志の強さを高めると言われます。”やりたい”として自分で選んだのであれば、辛いことが起きてもその辛さをこえて努力しなければならないことを体験できるでしょう。



 「今自分は何をすることに責任を持っているか」を感じとる力をつけることも大切です。



 たとえば、学校の宿題があるけど、ゲームもしたい、――という時、どちらを先にやるか、を考えさせる。小学生は、学校で勉強することが大事な役割(勿論そればかりではありませんが)ではないか、を問いかけることなど。



 もう一つ、みんなで考えたいこと――親として子どもに愛情いっぱい注ぐことはとても大切です。注がれた愛情があふれれば、子どもは他に愛情を注ぐことができるかもしれません。でも、いつも受身ではなく、自分が親や家族などに愛情を注ぐ機会を作ることもとても大切だと思います。



 そして殆んど家にいる子どもに「今出来ることは何だろう」「やりたいことは何だろう」と問いかけることはできると思います。やりたいことを一生懸命やり、楽しむことによって、自分を肯定したり「自分がそれをやる役割がある」という「生きる意味と価値」を感じとる力もつくと思います。



(参考文献「教育のロゴセラピー ロゴセラピー入門シリーズ5」勝田茅生著 システムパプリカ出版)

大雪

 2月は、2週続けて週末に大雪が降りました。

 関東地方ではめったにない大雪で、多くの道路で車が動かなくなり、雪に埋もれたり、山あいの集落では孤立からなかなか抜け出せなかったり、被害の大きさが連日報道されました。

 私の子どもの頃、福島の田舎にいた時は、大雪だと兄が雪の階段を作ったり、雪のトンネルをつくってくれたり、楽しいものでした。そして祖父が作ってくれたちいさなソリで、坂をすべるのも面白かったです。

 また、私が中学の教師をしていた時は、雪が校庭にかなり積もったのを見て、授業をやめて生徒達と雪合戦をしたことを思い出します。

 今回の雪の日、風邪気味で全く外に出なかったので、子どもたちが道や校庭で遊んだりしたのか、見ませんでした。報道も被害のことばかり。どうだったのでしょう。雪がとけ出した頃外出しましたが、道路沿いには雪だるまも見かけませんでした。

「生きる」とは・・・

 ひきこもっている青年たち(仲間との交流ある場合も)の多くは、一旦不登校や退学した者は、また、働けない時期が長くなった場合も、「自分は失敗した人間、社会では認められないダメな人間」というレッテルを、自分自身でも貼ってしまっています。親御さんの相談でも、「子どもが『自分には生きる意味がない、どうしたらいいのか』と親に訴えてばかりで困っている」と言われることがあります。

 ロゴセラピー入門シリーズの「教育のロゴセラピー」を読み始めましたが、「教育とは何か、教育の目標は何か」を深く考えており、考えさせられる言葉が多くありました。

 まず「何をおいてもまず子どもたちに教えなくてはならないことは、どんな状況の中でも人間が生きることには価値もしくは意味がある」という言葉です。そして現在の教育は「社会生活に必要な基礎知識を与える」ということが圧倒的に重視され、「基本的な生き方の態度を示唆する」ことについては軽視されている――という言葉。

 はっとしました。私たちは成績、学歴のみを考え、生き方については子どもたちに殆ど伝えてないように思います。

 私も自分の子どもに「生き方」「生きる意味」を一緒に考え、何かを伝えたか――とふり返ると、殆んど何も伝えてなかったと思います。そして私も親から「生き方」について特になにも伝えられなかった、と思います。

 ただ、終戦前後の幼少期は、友だちと思いきり遊び、楽しい思い出ばかりです。母親が畑できゅうりやとうもろこし、さつまいもなどを育てていて、それを採りに一緒に行くのも遊びのうちだったようです。

 9才で都会に来ても“勉強”のことはあまり重視されておらず、家でも学校の休み時間でも、ゴムとび、なわとび、毬つきなどして遊んでいました。中学になるとそういう遊びではなく、放課後3、4人で友だちとおしゃべりするのが楽しかったです。

 高校ごろからは、1人2人の友だちと心の悩みなどを話すようになりました。そして小説を読んだり、美術館や画廊などで絵を見たり、その楽しさも感じるようになりました。でも前にも書きましたが、コンプレックス(主に自己表現に対して)が強く、自信がなく、大学生の頃、「自分が生きる意味があるのか」というように疑問を感じ、でも「ペシミストのまま、不条理な人生を生きることかな――」と思ったり・・・。でも幼少時の十分遊んだ楽しさも残っており、生きることは辛いこといやなこともあるけど、楽しいこと面白いこともある――という思いもありました。「好きなこと、興味があることをしながら生きたい」と思いました。

 その後、コンプレックスを抱きながら、そして子育てしながら、興味あること、“したい”と思うことをして来たように思います。今の仕事は自分に合わない、もっと自分に合うことをしよう――思いながら。「合わない」と思った時は辛い気持になってましたが、我慢して続けようとは思いませんでした。

 さて、自分が子育てする時、私のそうした生き方は伝わったかもしれません。成績、学歴主義には疑問を持ってましたので、子どもたちに「勉強しろ」とは言いませんでしたし、楽しいこと好きなことをしていいという感じで。私も自分が好きなことをする時、大学に入り直し、建築の勉強をした時には、広島県の瀬戸内海の島に調査に一緒に連れて行ったりしました。

 色々心配なこともありましたが、3人の子どもたちは今、何とか自立した生活をしています。それぞれの生き方で。

――生きる意味の価値――

(「教育のロゴセラピー」より)

 では、私たちは子どもたちに「生き方」をどう伝えたらいいのでしょう。

 ロゴセラピーの教育観を、私のとらえた部分ですが、印象に残った言葉を述べたいと思います。

 まず「それぞれの人間がその人間がその人しか持ってない『唯一性と特殊性』がある。・・・どの子もそれぞれに異なる性格や能力、あるいは過去の経験や将来の夢をもっていて、それだからこそ、どの子もかけがえのない価値ある人間として人生のスタートラインに立っていることを理解することが教育の基本であるべき」――という言葉! 私たちは、余りにも「人と同じように」「人よりも高く」と思いすぎてはいないでしょうか。 性格気質も違いますし、色々な能力にも差はあります。

 また「人間は自分の置かれている状況で自分に最も合った行動の可能性を自分で選ぶことができる。『どの可能性の中に最も大きな意味があり、深い価値があるか』を感じることができる、にんげんは意味というものを行動の中心にもつことができる――『意味』を中心とする教育が大切だ」――と言います。

 そして「どんな人間も何かの意味を実現するためにこの世に生まれて来たという『根源的な信頼』を親も教師も持つことで、子どもも自分でも誰かの役に立つことができるという具体的な体験をして行く」・・・「人間らしく送るために必要な基本的な生き方を考えることが教育の大切な目標」だという言葉。 親や教師自身もそういう生き方をする――というのは、そう簡単ではないと思います。

 でもそれは、ささやかなことでもいいのです。野原や庭に咲く花々に感動することも、伝えられて来た文化に感動し、大事にすることも。

 また、「瞬間瞬間に意味を感じとる感受性、キャッチする感性を豊かに、強くする」ができたら!「このことは何か『意味』があるのでは?――と意識することを少しずつできていけば、と思います。

 数値では測れない、それぞれの価値、生きる意味がある――ことを何とか青年たちに、親の方に伝えたい、私自身もそういう生き方を身につけたい。これからも一緒に考えて行きたいと思います。 数値で測れることでその人の価値を決めるのではなく、不登校や退学を働いてない期間があるなど“失敗”だと思わないで、――それぞれが意味をもって生まれた、自分の生活の中で意味が与えられている。自分で意味を感じ取る力がある――と思えたら!