2010/08/11

人間は自然の一部

  こんもりとした、濃い緑の森がいくつか連なっている風景、少し上の方から映されている――映画「地球交響曲第7部」の中で――のを見た時、「こういう世界もある」「世界は広いんだ」という言葉が浮かびました。そして胸に風が通ったように感じました。
 日頃、辛さを抱えている人と関わったり、道草の家の課題を考えたり、そして、今の社会の厳しく見通しのつかない問題を目にし、耳にしていると、“生きる”ということが辛く厳しいものに感じがちですが、そればかりではない、との思いも浮かんで来ました。
 映画では3人の方の生き方、人間と自然との関係などが映像と共に語られ、そして、神社とそれを囲む森、神社で行う行事が映されていました。
 その中で「大自然の目に見えない力に生かされていることを思い出す時、人は素直になり、元気をとり戻すことができるのではないでしょうか」という言葉が胸に響きました。「生かされている」という確信までには思えないのですが、でも「そうかもしれない」という思いはあります。
 人間も自然の一部だと思います。動物や植物と同じように。そしてこうも言ってます。「我々一人ひとりは、皆地球の大きな生命が進化する過程で生まれた、ひとときの姿なのです」
 でも人間は科学を発達させ、どんどん人工化が進んでいます。「人間も自然の一部」ということを忘れ、科学によって何でもできる、という思い上がりが、かえって生き辛さを作り出している面が大きいと思います。
 科学によって縛られていることはないでしょうか。
 ちょっとでも体に臭いがあってはならない、家の中もちょとでも臭いや菌があってはならない――など。昔(そんな遠い昔ではなく)は賞味期限など記載されることはなく、においや味で(ちょっとだけ食べてみて)食べられるかどうか判断したものでした。
 コンピューターが発達し、何でも計算し、予想し、追跡できるようになったのに、それを“格差”を縮めるために、弱い立場の人のために使えないのか――単純に不思議に思います。
自然に癒される
 私が自然に惹かれ、自然に癒されるのは、幼い頃、自然に囲まれて育ったからだと思います。
 山(子どもでも登れる低い山)や川(泳いだものでした)そして田んぼや森があったから、そこで遊んだからだと思います。広々とした明るいイメージの田んぼ、深く暗い森、山の中腹にある大きな石もおままごとの家でした。森に囲まれた神社も遊び場、社(やしろ)の前にしかれたきれいな砂で、蟻地獄を作り、蟻をいれたり…また田んぼになる前、れんげの花が一面に咲いた中で、冠を作ったり、でんぐり返しをして遊んだこと、秋に稲が稔った時はいなご取りをし、刈った後は落穂拾いをしたこと――などが思い出されます。今はもうそんな遊びはないでしょうね。
 さて、青年の集いで青年がいみじくも言った「子どもの頃から家族の葛藤が強く、心の触れ合いがなかったせいか、外(自然)への関心がなかった。関心があったら“自然”からエネルギーをもらい“自然”に癒されたであろうに」という言葉にはっとしました。青年たち、人間関係に傷つくことが多いわけですが、それを癒すのにそんなに強く“自然”を求めていないようにも思います。勿論、「人間関係で傷ついたものは人間関係で癒す」という面もありますが。また、育つ時に、まわりにそうした自然が少なく、家族や友だちと自然の中で過ごすことが少なかった――ということもあるでしょう。
 青年たちが自然からもエネルギーをもらい、楽な気持になって、自分を肯定し、生き生き生きられる時間が少しでも多くなることを願っています。

出会いの場
 新たなことをする、新しい行動をする時、予想したようには行かない、そして「ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔の念が起きます。初めて開く「生き生き生きるカウンセリング講座」も定員が少ないし、参加費も共同募金からの助成を受けて安いのですぐ集まるだろうと安易に考えていたのですが、申込み者がわずかで「もっと早くから、もっと広くPRすればよかった」と後悔、そして憂鬱感がふっと浮かんできます。それは私の気質、育ち方によるのでしょうが、カウンセリングを学んでだいぶよくなって来ましたが「行動しなければこんな気持にならないだろうに」と私の弱さが出てきます。
 青年の集いの参加者も(暑さのせいもありますが)少ない日が続き「どうして行ったらいいのだろう」と思うと気持が沈みます。でも「このままのことがずーっと続くとは限らない、色々と工夫して行けば、もっと増えるだろう」「カウンセリング講座も初めてなのだから、次回はもっとよく考えて行えば、参加者も増えるだろう」と思い直しました。
 そして“数の問題ではない”ということにも気づきました。「青年の思い」の中でもあるように、2人の青年の出会いがお互いに心が通じ合い、充実した時間を過ごせた、という思いにさせ、肯定感、生きるエネルギーにもなったと思う時、2人だけでもそういう思いになること、そういう出会いを道草の家で作れたことは居場所を続けて来た意味がある、という思いにさせてくれました。