2013/05/01

季節の巡り

  街路樹もすっかり黄緑の若葉におおわれ、また低いつつじの生垣も黄緑の中に鮮やかなピンクの花を咲かせています、家々の庭も様々な色の花が心地よさそうで、晴れた日は外を歩くと軽やかな気分になります。東北の被災地も津波にもめげず生き残った桜の木がうす桃色の花を見事に咲かせているのをテレビに映されていました。(また原発事故の福島でも)。そうした自然の営み、自然は生きているのだ!と元気づけられる感じです。

 一方では靖国神社の参拝のため、国会議員がぞろぞろぞろぞろ歩いている姿をテレビで見ると「一体なんだろう」と心が重くなります。太平洋戦争は一方的に日本が始めた戦争であり、韓国、中国を巻きこみ、東南アジアの島国を日本とアメリカの戦場としたことは責任は大きいと思うのですが、これを”侵略”とすることは”自虐的”だからよくない――と今の政権は言っています。また「主権回復の日」式典も行われ、沖縄の人々のことはまったく考えないのか、と不思議でなりません。

 そして原発についての対応を見るにつけ、現政権の人たちは、思考力、想像力が乏しいと思えてなりません。目先のことしか考えられない。「原発がなければ停電が起きて困るではないか」と閣僚がテレビで言ってましたが、原発の廃棄物の処理は何百年、何千年とかかる(それ以上かも)そうで、それを想像したら未来の人のために、原発はやめるべきだと思わないのでしょうか。

スローシティ

 先月、青年たち(女性3人男性1人)と画廊巡りに行きましたが、その時、集合時間が来ても来ない青年から携帯に電話があり、「今から用意して行くので1時間位遅れる」と言って来ました。私は1時間も遅れるなら、先に行ってもいいと思い、集まっている青年たちにそう言ったのですが、青年たちは「1時間待ってもいい」と口々に言います。私は「そうなんだ、時間の決まっている所に行くわけではないのだから、待ってもいいはず」と思い、青年たちの優しさを改めて思いました。

 私は友だちと待ち合わせる時、5分、10分の遅れもいらいらしたり、「時間を間違えたのでは」と思ったり、”時間”に捕われた生活をして来たな――と思いました。待つのも、話したり、考えたり、感じたりしていれば無駄な時間ではないはず。

 そんな時、「スローシティ」という本に出会いました。スローフード、スローライフ、という言葉は聞いていましたが、それほど関心はなく過ぎており、「世界の均質化と闘うイタリアの小さな町」という副題に魅かれました。先月号にテレビの「小さな村イタリア」がとても好きだ、と書きましたが、それに通じるものがあるのでは、と思い、買い求めて読みました。イタリアには「スローシティ連合」(人間サイズの、人間らしい暮らしのリズムが残る町のネットワーク)がある。それは「グローバル化社会の中で、人が幸福に暮らす場とは何かを問い続け、町のアイデンティティをかけての闘い、挑戦」そして「美しい村の風景とは何か――大地とつながっている、という感覚を暮らしや町づくりに浸透させていくこと」と書かれています。

 私たちは、あまりにも進歩、発展をお求め、大地から離れた生活を近代的だと思い、高いビルが立ち並ぶ街を造って来ました。今も高いビルがどんどん建てられています。

それを豊かさの象徴のように思ってきました。

 いつも言っていることですが、物がいっぱいあり便利で効率的な生活環境となって、私たちの心も豊かになったでしょうか。

 先にのべたように、国民のことも、周辺の国々の人々のことも、そして未来の人のことも考えられない、想像できない人たちによって政治が進められていること、そして生き辛さを(精神的、経済的に)感じる、多くの人たち!(子どもも青年も中年も老人も) スローシティに憧れます。

学力と自己肯定感

 今、「脱ゆとり」という言葉が広まっています。世界の国々が参加する経済協力機構(OECD)が行う学習到達調査(PISA)の最近の調査で、前回より順位がかなり落ちた、ということで、それは”ゆとり教育”のせい、だから”ゆとり教育”をやめよう、ということです。

 学校教育は何のためにあるのでしょう。何を目標にしているのでしょう。基礎的な学力と共に人と関わり、心の成長(主体性など)など、大人になって社会生活を送れる力をつける、その人なりに生きる力をつける、ことかと思います。

 日々関わっている青年は、感受性や思考力は高いのに、自己否定感が強く、なかなか前向きに進めない。不登校になったり、ひきこもったりすると「自分は社会参加していないダメな人間」という思いが強くなり、それを取り除くのは大変難しい。日々そういう思いの青年たちと共に闘っていると言えるかもしれません。(大げさな表現ですが)

 子どもの頃から自己肯定感を持つにはどうしたらいいでしょうか。

 北欧、デンマークの学校教育が(テレビで見ましたが)とても参考になります。PISAでも上位の学力を持っている、デンマークの教室の様子。まず、子供たちが、自分がやりたい学科を選び、主体的に勉強する。分からない所は、教師やボランティアの母親や先に理解した子供が教える、納得できるまで勉強しているようです。それでもその学年の勉強について行けない児童は下の学年のクラスに行って勉強する。自分で選んで、であり、コンプレックスは感じないし、まわりもこだわらない。むしろ理解できないまま進級してしまう方がおかしい、という考え。ゆっくりだったら理解できるタイプの子どももいるはずですから。

 こういう学校教育の中で主体性と自己肯定感は育つと思います。競争ということはないわけですから、他と比較することがなく、お互いに助け合うこと、それぞれの特性を認め合うことが培われるように思います。

 日本では競争心で勉強させる、ということが多く、お互いに助け合う仲間ではない、心を許して合えなくて、まわりに合わせることが無難だ、と思いがちになる、そんな中でいらいら感もつのり、いじめにつながる――ということもあるように思います。

 これだけの問題ではないかもしれません。大人、日本人の多くは自己肯定感が低いように思います。心穏やかにゆったりと過ごせたら!人と比較しないで自分ができることを精一杯やること、かな、と思います。