2009/03/01

ひとりごと

 人と関わる私を見て「優しいだけでなく、強さも必要だ」という言葉を受けることがある。私は強い人、強い言葉にたじろぐ弱さを持っている。人に対し強いことは言えない。でも人と関わることが好きで、心の交流を求めてカウンセラーの道を選んだ(色々な活動、仕事を経て 私の心の根本にある感情は何だろう。10年位前は「悲しい」という言葉がよく浮かんだ。今は殆んど意識されないが、今、ふと心の奥にある感情をみつめると、“悲しい”という言葉も浮かぶ。でも多くを占めているわけではない。

 そう、少し悲しく、少し不安で(時には大きくなるが)、少しユウウツで(時には大きくなるが)、少しさびしく、少し明るく、少し暖かく、そして少し諦めの気持があり、すこし何か未来への期待があり…それが“自分”なんだという気持ちがある。若い頃は非常に自信がなく、悲観主義が強かった。今は「人間って、みにくい存在だ」と思う面もあるが、「人間ってやっぱりいいもんだ」との思いもあり、それが自分を支えて来たのだろう。

 また気質的に完ぺき主義ではなく、思いつめないところがあり悲観的な気持、ユウウツ感にとらわれることがあっても、好きなこと楽しいことをしたい気持も残っており、(映画、読書、テレビドラマ、美術館めぐりなど)、話ができる友だちがいた――ということが、今まで何とか活動を続けられた理由かもしれない。

 カウンセリングだけの仕事であれば、私のカウンセリングに合う人が続けて行くことでいいけれど、「道草の家」という所で大勢の青年や親の方、支援者などと関わる場合、できるだけ多くの人が、参加することで得るものがある――ことの考慮も!

 「私でいいのかな」とふと思うこともあるけど、スタッフに支えられ、青年たちから元気をもらいながら、(青年たちと話すのも好き)できるだけのことをやるしかない――よね、とひとりごと。自分の弱さを自覚しているからこそ、弱い人の気持になっている人、弱い立場の人、辛い気持になっている人の気持を理解し易い――ということもあるだろうし。でも十分に理解し、十分な対応ができないことも勿論あって、「許してほしい」と言う気持も・・・・

心の自由・不自由

 自分の気持ちはいつも自由だ――と思える人は少ないでしょう。生活が豊かになったのに、なぜこんなに悩むことが多いのか――と思う人が多いのでは。

 人間以外の生物、ある昆虫などは土の中、木(幹)の中に何年もじっとしていても悩まない。人間は知恵が発達し、明日のこと、さらにその先のことを考えるようになり、植物を育てたりして先の備えもできるようになった、でも一方、飢饉で食べられなくなるのではないか、という先のことを考えての不安の感情も生じて来ます。(以下、「心はなぜ不自由か」(PHP新書)を読んで共感したところをまとめてみます。)

 昔の人の生活は自然に支配されることが多く、選択肢が少ない一生でした。でも文明が進むにつれ多様になり、選択肢が多くなって来ます。目の前の対象を手に入れる自由が多くなればなるほど、手に入れられない不自由も多くなります。この自由とは「しようとしてできること」で、不自由とは「しようとしてできないこと」と言えますが、それを第一の不自由とすれば、できないと分かった上で、当初したいと思った、その思いそのものを、自分でコントロールできない――という第二の不自由が起こって来ます。

 多くの人がやっていることだから「できるはず」「かんばればできるはず」・・・でもがんばってもうまくいかないこと(第二の不自由)そして悩み苦しむ――ということは非常に多いのではないでしょうか。

 青年たちや親の方、今の日本社会を見るにつけ(自分も含めて)、第二の不自由に振りまわされ、辛い思いをしてる人が多いのを感じます。「多くの人が働いているように、なぜ自分は(子どもは)働けないのだろう」「なぜ、普通の、社会一般の人と同じようにコミュニケーションができないのだろう」「自分と同じくらいの年の人は結婚しているのに、自分はできない…」など、特に日本人は「他人からどう見られているか」「普通が大事」という観念があるので、多くの人(普通)からはみ出たことを恥しいと思いがちです。

 でも、しようとしてできないことは誰でもあると思います。素質、気質、それまでの辛い体験、そして体験不足などで。

 はっきりした障害があれば、それを自然の壁(人為ではどうしようもない)として、断念して、ありのままをひき受けて、それなりの生き方を考えて行こう、という思いに、切り変えられます。でも長くひきこもっている青年やいじめ、不登校を経験している青少年は、自立の力がついていないこと、目に見えない力不足もありますし、対人恐怖が強かったり、それ以上に強いコンプレックスという“第二の不自由”で自分を縛ってしまい、動きをとれなくしていると思います。目に見えた障害があるわけではないので、人は「がんばればできるはず」と思っているに違いない――という思いにとらわれて苦しんでいます。

東南アジアの子どもたち

 <青年の思い>の方でも語られていますが、フィリピンなど東南アジアの貧しい生活をしている子どもたちが、生き生きした目をしている――というのはなぜでしょう。一つには、今述べた心の不自由を感じていないからでは、と思います。一日一日を精一杯生きることで、他の選択肢がないことは、「もっと他のことをしたいのにできない」とか「できない自分はダメだ」と思うこともないからだと思います。できること(マンゴを売ったり、ゴミの山から売れるものを探したり)をやっているし、家族や友達と助け合って生きている実感があるからではないでしょうか。人とくらべることがなく意識しないでしょうが、お互いに認め認められ自己肯定があるでしょう。

 若いお母さんなど子育てに不安を感じ、神経過敏になっているのを聞きます。砂場で遊ばせるのも、猫や犬のふんがあるから不潔で病気になっては困るの――と言って遊ばせない――とかなど

 そして、他の子に遅れをとらないよう、1才から塾につれて行ったり、先の先のことを考えているようです。自分も人も信頼できなし、先のことを考え、不安になる、まわりとくらべて遅れないか、ふつうでないとどう思われるだろう。――と他を気にするから不安になる。親自身が不安であれば子どもが不安になる、日本の子どもたちは他の国にくらべ自己肯定感を持てない子どもが多い。そのままの自分を受け入れられない不自由を感じているし、それには、自分を肯定できない気持もあるでしょう。

 私たちが万葉の時代、万葉集の歌・防人の歌などに憧れ癒されるのも選択肢のない中で他とくらべることなく素直な自分の思いを、ひたむきな思いを歌っているからではないか、と思います。

和田ミトリ