2008/12/01

母の一生と時代の流れ

 今年も、もう12月を迎えました。この会報を何とか毎月欠かさず発行できてほっとしているところです。毎月、ぎりぎりになるまで、私が書く文のテーマが決まらず、発行するのが、どうしても4日、5日頃になってしまいます。でも、切羽つまると、何らかのテーマ、書きたいことが浮かんで来るのは不思議です。

 12月は?――と思った時、特に皆さんにお伝えしたことは浮かばなかったのですが、ふと母が亡くなったことは、私にとって大きなことではなかったか、と思いました。個人的なことではありますが、11月に97才で亡くなった母は、明治、大正、昭和、平成と生きて、時代の流れと共に生きたとも言えるし、私も母によって大きく影響された面もありますし、そうしたことをたどり、考えるのもよいかと思いました。

 母は明治の終わり近く(43年)に生まれ、大正の終わりから昭和にかけて女学校で優等生として過ごしました。学校制度が充実して来た頃で、福島県の田舎町にも女学校ができて、その一期生でした。でも母は「町に女学校ができなかったら都会の女学校に行けたのに(その能力はあったのに)」と高齢になっても言い、田舎の女学校を出たことにコンプレックスを感じていました。

 明治から大正にかけて、日本を欧米なみにするために学校教育の充実を急速に行い、学校、勉強を重視した面もあり、母もその影響を受けたものと思われます。

 また、明治、大正と昭和の終戦まで家族制度があり、親、年長者を敬うべき、という社会風土がありました。母は大ぜいの兄弟の長女であり、親に認められるためには、親の言うことを聞き、親を助けることだ、と思ったようで、「親は絶対だ」という価値観を持ちました。

 でも、戦後民主主義となり、私は民主主義の教育を受けました。私は「親は絶対だ」とは思えないし、親思いの親の言うことを素直に聞けない(と言ってもはっきり言葉で自己表現もできない)、母にとって「いい子」にはなれませんでした。母は性格的に完ぺき主義のところがあって、私はのんびりして、ぼーっとしたところがあり、私と合わなかった。厳しくしつけるというより、過保護、過干渉でそれが私には圧迫感であり、いつも「ダメだ、ダメだ」と言われてるようで、思春期頃から強いコンプレックスを持つようになりました。

 そして昭和から平成にかけて、時代の流れは変わって行きましたが、母は余り影響を受けなかったと思います。(例えば、男性が赤やピンクの服を着るのはおかしい――というような)

 20年ほど前に同居しましたが、“親は絶対”という価値観、期待に私は応えられず、母の不満は大きく、葛藤がありました。また母は向学心があり茶道の先生にっていて人に認められたい気持ちが強かったのが、老いて来て、お茶も教えられなくなり、そういう面でも満たされず、私に当ったかもしれません。

 でも父が寝たきりになった後は、献身的に介護しました。亡くなった後、「お父さんを十分みて上げられなかった。それはミドリが、家事の方を全部やってくれなかったからだ」と一時期私を責めましたが、間もなく「教会に行く」と言い(「仏教の信仰はそのままでいい」と牧師さんに言われました)、介護保険制度ができてからは、「デイサービスに行く」と自分から言いました。そして2年前には「老人ホームにはいる」と言い、父の死後、私にばかり求めない、賢明な選択をしてくれました。

 老人ホーム(グループホーム)にはいってからは少しずつ思考力も衰えて行き、私やまわりに対する不満も少なくなって行きました。(物理的にも遠くなり、接する時間も少なくなり、私にとって、少しずつ、離れた存在になりました)ホームの生活を“楽しむ”というほどではありませんでしたが、なじんで行き、穏やかな生活になったようです。

 そして9月末に肺炎になって入院し、すぐ、呼吸困難になり、危篤、と言われましたが、一時持ち直し、簡単な話ができるようになりました。でも医者の言うように、じわじわと弱って行き、呼びかけや手を握った時の反応が少なくなり、そして全くなくなり41日目に静かに息をひきとりました。

 最後の方に「今までの人生をどう思う?」というような話はできませんでしたが、母はそういうことは考えなくなっていたでしょう。ただ、亡くなる20日前に娘が父(夫)と母の母の写真を見せた時、何も言いませんでしたが、(言えなくなっていた)目尻に涙が一粒浮かんだように見えました。父の死後「早くお父さんの所に行きたい」と言っていましたので、父のもとにもうすぐ行くことを感じていたかもしれません。

 このように母の一生を簡単にたどりましたが、人の一生はもっともっと大きく、短く語れるものではないでしょう。

 私にとって母はどういう存在だったのか…

 良くも悪くも大きな存在、大きな影響を与えたものと思います。父とともに好奇心、向学心があり、伝統芸術に関心があったことは、私にも興味の広がりを与えてくれたと思います。

 でもまた、ある時友だちが「母はいつも私の味方になってくれる」と言ったのですが、私は「責められる相手」だと思いました。身近に暮らしていた時は圧迫感がありました。でも最後の方は、母は明晰でなくなっただけ、穏やかになり、私も穏やかに接することができ、静かな気持ちで母を見送ることができました。

 母は母なりに自分の価値観を通しながら一生懸命生きたと思います。

 時代のずれ(27年間ずれて)や性格の違いなどが、私たちの間に葛藤をもたらしたと思いますが、同じ故郷に生まれ育ちました。母がこの世を去る時、そこへ戻る夢を見たのではと思われるように、私も何年か先にそんな時、故郷の夢を見ながら…という時が訪れるかと思います。

 こんなふうに母のことを書いて来て、目の奥が痛み、涙がにじみます。

和田 ミトリ