2008/09/01

信州の旅

 先日、一泊旅行で長野の方に行って来ました。久しぶりに自然いっぱいの中を、戸隠、飯綱、黒姫の辺りを歩きました。戸隠神社の奥社に行く参道は両側に太さ、高さとも初めて見る、大きい杉の並木、何百年も変らずここに立っているのだという思い、また太い幹の皮は縦にすじが沢山はいっていて、はがれている所もあり、年々変っているのだと思い、そしてこの道を何百年も前から人々が通っているのだという思い、が浮かびました。木のにおい、緑の葉の風にすれる音、せせらぎの音、友だちは、「マイナスイオンがいっぱい」と言っていました。後半は、何百段?の石段、ここも、多くの人が登った所、息を切らしながら登り切りました。昔から、少し苦労して、たどりついたということに祈りを聞き入れてくれそうだと、感じたのではないか、と思いました。私も特に神社信仰はないのですが、お賽銭をあげて、お祈りをしました。「私が幸せでありますように」「生きとし生けるものが幸せでありますように」という言葉が浮かびました。(これは、本来は、神仏に祈る言葉ではなく自分の心に向けてのものですが)
 翌日は、一茶記念館を訪ねました。一茶には多少興味を持ってました。今は夏で、千葉と余り変らない気候ですが、冬は雪深く、記念館も12月~3月まで閉館です。一茶の一生と俳句に関するものが、展示されていましたが、子供の頃に知った「やれ打つな蝿が手をする足をする」という句もありました。また近くには墓と句碑があり、「是がまあつひの栖か雪五尺」の句碑を見て、晩年はこういうくらしと心境だったのだと感じました。そして「目出度さもちう位也おらが春」は、一茶の特徴、あるがままを尊重している、そして庶民的な感情「哀しい、楽しい、心屈したとき、心高揚したときの気持ち」を率直に表現しているようで好きな句です。200年位前の(1763~1827年)一茶の小さな動物や植物、子供たち、弱い者に気持ちを注ぐ人生と人々の生活がしのばれます。私たちが失ったものが、ここに生きていたのだと、痛感させられました。

和田 ミトリ

生きづらさ”をめぐって

 一茶が生きた時代、一茶の世界、小さき者、弱き者への愛を思うとき、今の日本社会の生き辛さを改めて感じます。多くの人、殆んどの人がますます生き辛くなって来ていることを感じているのではないでしょうか。特に若い人は、自分たちがそうした訳ではないのに、いつの間にか、生き辛い世の中に放り出されているのを感じ、無力感を感じてしまうのではないか、と思います。生きる意味とか生きがい、生きる価値などを見出せないまま、漂ったり、よどんでいる感じを抱く若者たち…意識する人もしない人もいるでしょうが、意識している人は「大人、団塊の世代が今の社会を作った、僕たちのせいではない」と言ったりします。
 ニート、ひきこもる青年たちが、働く場所、そんなに辛い思いをしないで働ける場所は簡単に見つからない。「青年の思い」でもとりあげましたが、人間関係に慣れていない、“人が恐い”ということもありますが、世の中全体が余裕なく、そういう若者を受け入れたり支援する雰囲気ではないように感じます。
 高度経済成長、資本主義の影響が、それが、成長が殆ど止まった現在も大きく影響しているように思います。そしてたえまない発展の中に私たちはいる。文明の発展は続いていますが、どれだけの人がそれを享受しているでしょう。確かに非常に便利にはなりましたが、そのデメリットも大きい。
 若者も子供たちも全体に元気がなくなっているように思います。漠然とした不安やもの足りなさを感じ、生きている実感を感じられない…そんな中でいじめも起きているのでしょう。
 「悩む力」(姜尚中著 集英社新書)を読んでいて、その疑問に答えるような文に出会いました。「人が自然の摂理に即した暮らしをしているときは、有機的な輪廻のようなものの中で、生きるために必要なことをほぼ学んで、人生に満足して死ぬことができます。しかし、絶え間ない発展の途上に生きている人は、その時しか価値を持たない一時的なものしか学べず、けっして満足することなく死ぬことになります…」
 私流に解釈すると、昔は、生きるために、生活するために、子供なりに家の手伝いをしながら、体験的に徐々に生きる術を学んで行く、知識として学校で教えてもらうのではなく。季節、季節ごとに工夫をする生活や行事、子どもの手伝い(畑や家事、生活に必要なもの、遊び道具などの物を作るなど)も必要で、子供自身も家族のために役立っているのを感じる…。今は、社会に出た時、本当に役に立つのか分からないような高度な知識も覚えなければならない。(中学生以上になると、数学などついて行かれない生徒が多くなり、コンプレックスばかり大きくなる)でも本来、自分で体験して、(物を作ったり、野菜を育てたり、お祭りなどの行事に参加したり)達成感、役に立つ喜びなどと共に生きる術を学び、生きる実感を感じるものではないでしょうか、そして大人になるにつれ、難しいこともできるようになり、また、子供たちに伝えて行く役割もできる。
 自然、植物が生まれて(芽が出て)大きくなって、枯れていくように人間も自然の一部として、生まれ、死んでいく、そして何かに生まれ変る。それが自然の摂理であり、そこに生きる意味も感じられる。人と競争したり、焦ることはない生活があったでしょう。そこまで、戻ることは出来ませんが、少しでも意識して、競争しない、ゆったりと生きることの大切さを感じることはできるかもしれません。
 また、新聞でに掲載されてたのですが、「青少年の体験活動と自立に関する実態調査」によると、小学生ですが、自然体験が多い方が自己肯定感が高い傾向にある…とありました。
 青年になってしまうと、簡単ではないかもしれませんが、自然体験、キャンプなどが体験できれば、と思います。ただそういうことにも余り対人恐怖が強かったり、エネルギーが低い場合は、それをある程度回復する必要があります。仲間と語らいの中で話すことの抵抗を弱めたり、何らかの形で自己表現ができるようにと思ってます。(箱庭、パステル画などで表現が豊かになって行く青年もいます)

和田 ミトリ