2013/11/04

パステル画とコラージュ

  青年の集いでは月に2回位づつパステル画とコラージュの時間があります。

 パステル画は、写生でもいいし、何かを見て描いてもそのままでなく自分の色合いで自由に描いてもいいし、まったく具体的なものではなく、パステルの色を楽しむようなものでもいいし、また、自分の感情を表すようなものでもかまいません。「こういう気持を抱いているのだ」とはっとするものがあったり、様々な色で円を描きシャボン玉が飛んでいるような楽しい絵があったり、また緑色のグラデーション(水平に重ねていく)で、色々な草が生えている野原の広がりとも田んぼや森や遠い山波とも見えて、見る人が自由に感じていいものです。

 コラージュは雑誌の写真(すてきな服を着たモデルや雑貨や風景、植物や動物など)、とてもきれいですが、ありふれたもの、それを切り取って自由に白い紙に貼っていくのですが、その組み合わせは、楽しいものであったり、思いがけない、ハッとするものになったり、独特な雰囲気が、かもし出されます。ある女性は色々小さな物を買った時の箱や袋、シールなどを捨てがたく取ってあったのを大きな紙に貼りました。見ていても楽しいし、記念にもなります。

 パステル画もコラージュも、言葉にならないものを自由に表現するという自由さと、そして「一つのものができた」という達成感を感じられたらと思っています。

孤立無業について

 「孤立無業」という本を読みました。(玄田有史著 日本経済新聞出版社)

 仕事をしていない人で、他の人と交流がない人たちのことです。相談機関にも親の会にも来ない青年たちが何10万人もいると推定されてきましたが、そういう青年や親御さんたちはどういう気持ですごしているのだろうと、とても気になっていました。

 この本では総務局統計局が実施している「社会生活基本調査」とコンピューターによるアンケート調査からデーターを綿密に分析して、孤立無業の人たちの生活、その姿を写し出しています。

 「孤立無業」とは「20才以上60才未満の在学中を除く未婚無業のうち、ふだんずっと一人か、家族以外の人と交流もない人々」を指しており、その数は2011年には2000年の2倍、162万に達していると書かれています。そして60才未満未婚無業者の約6割を占めている。

 「家にいて誰とも交わらない生活を本人が選んでいるのだから認めて受け入れよう」とか「もう大人なんだから本人の問題だ。本人が決めるしかない」という親の言葉も聞きますが、本当にそうなのだろうか――と疑問に思って来ました。

 この本の分析によると孤立無業者はゲームに熱中しているわけではないし、ネットを通じた検索や情報収集を積極的にやっているわけではない――という姿です。

 そして「孤立無業になることも本人の選択もしくは自由ではないか」という第3者の疑問に対しては「孤立無業を好き好んで選んだ場合ばかりではなく、孤立していない無業者にくらべても精神的に不安定な場合が少なくないし、自由な時間を趣味や関心事に没頭しているということもあまりない」と答えています。

 「孤立無業を自由に選択した生き方とは、望んだものとはほど遠い」と思われます。私が電話で受けた相談では「子どもは、買い物など外に出るので、ひきこもりではない。だからひきこもりの居場所には行かない、と言っている」と言う親御さんもいました。「他人と交わっていないが外出はしているのでひきこもりではないと思い、そのうち働くだろうと思い、10年がすぎてしまった」と言う方も。

 道草の家に来る青年はしばらくはゲームなどして家にいましたが、仲間がほしい、仲間と話したい、悩みを聞いてほしい」などの想いで訪れます。「自分はひきこもりではない、だからそうした居場所には行かない」という青年の方がずっと対人恐怖が強いように思います。

 では、本人も親もなぜ積極的に支援を望まないのでしょうか。それは多分「普通の道、社会に出て働くという道からはずれてしまった。こうした人間を社会は受け入れないだろう」という自己否定感、そして諦めが強いのではないかと思います。

 そして、親ごさんもそうした気持と共に、「子どもを否定したくない。こどもが選んだものとして、このまま受け入れよう」という思いも起こるのではないかと思います。自分も子どもも責めたくない・・・

 ここで著者は「孤立無業は社会の病理なのだ」と言い切っています。体の病気などは、医者は病気になった患者本人を責めるのではなく、病気そのものを治そうと努めます。同じように「孤立無業」も社会の病理として社会全体で支援して行く必要がある――同感です。

 孤立化は日本の社会全体に広がっています。訪問支援(アウトリーチ)は非常に難しく専門的な知識や体験、関わり方の習得が必要です。そうした専門家の養成が急がれます。できれば、同じような体験をし、それを乗りこえた若者が、養成されるといいかもしれません。

社会の受け皿を

 アウトリーチの実践と同時に独立無業の人たちが「外へ出たい」と思った時に、意欲を持てるようにするには、社会はどういう受け皿を用意したらいいのでしょうか。

 道草の家はスタッフや仲間との交流の中で(心のことを話したり、楽しい活動もしたり)「人間信頼」を取り戻し、コミュニケーションの力をつけ、自分の生き方を考えられる、社会(職場、学校など)に出るためのワンステップの場として活動してきました。その中で、アルバイトを始めたり、就労に取り組む青年もいました。(直接、仕事を探してあげることはしませんでしたが)

 でも、新聞やNHKクローズアップ現代でとりあげられた秋田県の小さな町、藤里町の取り組みが、非常に印象的です。社会福祉協議会の綿密な調査によって現役世代(18才~54才)の8.7%がひきこもりかそれに近い状態と分かり、どうしたら、その人たちが外へ出るようになるか、を考えました。最初は「楽しいイベントだったら」と用意したのですが、誰も来ません。そして介護ヘルパーの研修会を開いたところ、大勢が参加しました。その後、役所の一角に居場所にもなり、働く場にもなる食堂を開き、自分達で運営するようになり、また、地域の特産物の通信販売も始めたとのことです。

 やはり、若者は、人は、何かの役に立ちたい、社会で仕事をしたい、という思いを持つことが多いのではないでしょうか。表面的な諦め(自分なんか社会に受け入れられない)の奥に「自分ができることがあればしたい」という気持があるのではないでしょうか。

 しばらく孤立無業であっても、社会は受け入れてくれる、自分が役に立つ場がある――という思いになるような「受け皿」働き易い職場やそれを探し易いシステムの充実が大切だと思います。