2014/05/01

いちょうの木

 道草の家の西の窓から、斜め向かいに大きないちょうの木が見えます。

 去年の秋に黄葉し、間もなく葉が落ち、枯木のようになっていましたが、春になった今、鮮やかな緑の若葉をいっぱいつけ、「こんなに大きかったかしら」と思うほど、窓から外を見る度、その存在が、目にとびこみます。

 そして、季節の移り変わり、自然の大きな営みを感じます。

 道を歩いていると、小さな可愛い花が通りの家の庭や道端に咲いているのにも、自然の営みを感じます。名前の知らない花が多いですが道路のわれ目に、タンポポが咲いていました。もう胞子になっているのもあり、まんまるな球、これにも感動しました。触ってみたくなり、ちょっと指を触れると、胞子が少しくずれて落ちてしまいました。悪いことをしてしまった、と思いました。3日後に通った時は、花も胞子の球もありませんでした。あの時の花も胞子になり、風にみんな飛んでいってしまったのでしょう。

“通学路”の向こうは?

 先日、「世界の果ての通学路」というドキュメンタリー映画を見ました。4つの国の、学校へ通うにも、厳しい自然と戦いながら、数時間かけて通う子どもたち。

 ケニアの兄妹――15km2時間かけて通います。象も生息しているサバンナを、象がいないか、立ちどまっては、その気配を確かめながら、走り抜けて行きます。

 アルゼンチンの兄妹――18kmを1時間半かけてパタゴニア平原を馬に乗って通学しています。

 モロッコの3人の少女たち――22kmを4時間かけて、アトラス山脈を越えて、街の学校に通います。途中足を痛めた友だちを励まし励まししながら。

 インドの3兄弟――4kmを1時間15分かけて通います。兄が病気で足が悪く歩けない。幼い弟2人が兄を車椅子に乗せて、ひっぱり、押して行く。道があるわけでなく、川の中も、止まりながら、動かして行く。また街にはいってから、タイヤがはずれてしまった。何とか修理の店に行き、タイヤを直してもらい、学校へ着く。学校ではクラスメートが待っていて、車椅子から抱え出して教室へ。危険に満ちた通学路。

 こうした4つの国の子どもたち、困難を乗り越えて通う子どもたちの表情は生きいきしています。感動を呼ぶ場面ばかりです。そしてちらしには、色々な仕事をしている著名人10余人のコメントが――「非常に感動した」というような――載っていました。

 でも私は、素直に感動できませんでした。

 ちらしには「彼らはなぜ命がけで毎朝学校に向かうのだろう」という言葉が書かれていますが、映画の子どもたちは将来に希望を持っている。(「医者になりたい」「パイロットになりたい」など)そのために学校に通うのだ、と言う。でも私が関わっている、或いは親の方などから聞いた、社会に出られない青年たちは(いつも頭の片隅にあります)こうした希望を将来に持てない、子どもの頃から抱けない、そして不登校になったり、退学したり、仕事を続けられなかったりすると、一層、「自分の将来には何もない」と思ってしまう。そういう、将来に希望、“なりたいもの”がない青年たちの苦しみ(諦めてしまったり、も)をどう考えたらいいのでしょうか。

子どもの心から大人の心へ

 精神科医、田村毅先生の講演を聴き、著書も読んで、考えさせられ、そして納得することが多々ありました。印象に残ったことをお伝えしたいと思います。

 まず、他の人と関わらずに殆んど自室で過ごしている青年、少年たち。その生活を本人が選んだのだから親も受け入れてあげた方がいい――という考えに疑問を持っていましたが、田村先生は本人は“自立”を望んでいる、親はそれを信じて関わるべきだと言います。(自立は社会に出て働いて収入を得る、ことばかりでなく、ボランティア活動なども)。

 そして、ひきこもっている青少年は、思春期を乗り越えられず、思春期が続いている状態だとみています。

 思春期とは、「子どもの心」から「大人の心(社会的自我)」への移行の期間です。その移行には時間がかかります。それをもう少しくわしく言いますと、

o親が、(親のエンジンによって)やる気を起こしていたのを、自分自身のエンジンに切りかえる作業をする

o他者との関係性、自分を大切にしながら、他者と折り合う力をつける

o自己責任・・・ものごとがうまくいかなくても家族やまわりに責任を転嫁せず、自分で責任を負う覚悟を持つ。

o自己万能感からの決別・・・100%の自分でいることを諦め、60~70%でもかまわないと受け入れる

o家族という居場所から巣立ち、ソトの世界に安心できる場所を自らの力で見出す。

ひきこもっている青少年は2つの自我、「子どもの心」と「大人の心」の間で揺れ動いています。

 そうした自分の子どもに対し、親はどう関わったらいいのでしょうか。

 今の状態を理解する必要はありますが、「大人の心(社会的自我)」に向かう過程にいることを信じ、自立を信じて、少しずつ距離をおくことが必要です。少し離れた距離から支えるようにする。いつでも守ってあげるではいけない、「自分で何とかやらなくては」と思えるようにする・・・。

 そして、責任を親が引き受けなくてもいい、ということです。

 子どもが親を責めても「ダメな親だ、だった」と自分を責めるのではなく、誰でも、限界や欠点はある、と認めた上で前向きに生きることが大切です。いつまでも責任を親が引き受けていたら、自己責任を持つ大人にはなれない、ということだと思います。

親の安心感、子どもの安心感

 でも、親自身が安心感がないと、子どもから距離をとれず、すべて子どもに合わせることになりがちです。そして、親の気持は子どもにも伝わります。

 誰でも完璧ではありません。いいところもダメなところも半々くらいにありますし、また相手との組み合わせもあるでしょう。

 また、家族に問題があるのも当たり前です。でも、親、家族が一番身近におり、関わる機会が多い。勿論、他の支援が役立つこともあります。親、家族が、カウンセリングを受けたり、親の会で話し合ったりして、親の心の安定を保つことが大切です。

 親自身が十分な安心感をもつことが、そして子どもに対する信頼感をもつことが、こどもに安心感を与えます。

 安心感が持てれば、自己肯定感が持てれば、子どもも思春期を少しずつ抜け出して、“自立”の方向に行くのではないでしょうか。

 なかなか難しい場合も、歩みも遅い場合もありますが、――思春期の中にとどまっていることを理解しながら、子どもも心の奥では“自立”したい気持があることを信じて、今、親ができることは何か――を考えることができれば、と思います。

(参考文献「ひきこもり脱出支援マニュアル」田村毅著 PHP研究所)

2014/03/01

里海

 先日、「里海」という言葉をテレビの番組「里海SATOUMI――瀬戸内海」で知りました。



 「里山」については、かなり前から「里山をとり戻そう」という活動もあり、ずっと以前ですが参加したことがあります。



 「里海」は、人と自然が共生する沿岸海域のことで、高度経済成長期に工場の排水で赤潮の大量発生などで、“瀕死”の海に化した瀬戸内海が、美しい海をとり戻した、という内容でした。



 瀬戸内海は13年間過ごし、子育てをした(長女が11才まで)所で、思い出も多い所でもあります。



 高度成長期まっただ中で、夫は石油化学の工場に勤め、家族は近くの小高い丘の上の社宅に住み、そこから毎日、工場と海を見ていました。そして工場の排水の公害が問題になって行き、同時に瀬戸大橋が本州と四国を結び、「夢の大橋」として、喜びの声もあがりました。



 その後、千葉の方に移り、瀬戸内海のことは遠くなりました。



 テレビでは「瀕死の海といわれた瀬戸内海がなぜよみがえったのか」――海の中に様々な生き物が泳いだり歩いたりしている姿が美しい映像で描かれていました。



 それは、漁夫たちが「カキ筏」を作り、カキを養殖することでカキの濾過能力を発揮させたことによるものです。また海草の種をまき、増やすなどの努力も。



 カキや海草などが海の自然を復活する――ということを、その地域の漁師の人たちが意識して努力した、ということも素晴らしいですが、自然そのものが自然を復活させる(もともとあったわけですが)、自然の力はすごいな、と思いました。



 つけ加えるならば、カキ筏で作業している青年を見て、社会に出られない青年も、ああいう環境で過ごしていれば、ああいう姿でイキイキと仕事ができるのに――と思いました。



生きる価値と意味(2)



 先月、ロゴセラピーの教育観を述べましたが、分かりにくかったかと思います。



 親も教師も、子どもに伝えたいことを実践しているか、「自分らしく生きるのに必要な基本的な生き方」をしているか。日々の生活の中で”意味”を感じ取れるか――ということが求められる、ということですから。



 私自身も関わっている青年に対しては親や教師に近い立場におり、問題を感じたりする時、「これには何か意味があるのでは?」と、なかなか向えず、答えを見つけられず、落ちこんでしまいます。



 大人になって長くひきこもっていると(他の人と殆んど交わらない、或いは仲間と交わっても社会に出られない)、親も子もこうした状態を社会はなかなか受け入れてくれないだろう、と思いがちで、社会に出て仕事をするなり活動することでなければ、”生きる意味や価値”はない、とどうしても思ってしまう。仲間と交流できれば、それだけでもよい、と思う親の方もいるようです。



 本当は社会に出れば自分の能力を発揮できるかもしれない、でも社会に出るのは、人と交わるのは怖い、という青年もいるでしょう。日々の生活の中で「意味や価値」を親子で見出すのは難しいかと思います。



 でも、ロゴセラピーの教育観は大人になる前の子育て中の親や教師に向けて、「基本的な生き方」を考えてほしい、というものですから、10代のお子さんを持った親の方には比較的受け入れ易いかと思います。「ロゴセラピーを学んで、親も子も一緒に生きる意味を見つけることが元気になることだと思います」というメールを頂きました。



 そして、ロゴセラピーでも「責任」ということも大事なことだと言います。子どもの頃から「責任」をもつ体験、自由に選択したのであれば、その結果に責任をもつ――ということ。また、子どもも、それぞれの時期、それぞれの状態で才能に応じて「何かをする課題と責任」があることを体験する必要がある――ということです。



 私は子育て時あまり“責任”ということは言わなかったように思います。私自身も思春期親から「ああしなさい」「こうしなさい」と、言われたことをして、「責任」をもつという意識はなかったと思います。



 大人になって、だんだん嘘をついて言われたようにはしなくなりましたが、それは自分で責任をとるしかなかった、とも言えます。



 いつも親や教師の言う通りにして、自由に選択できなければ、「責任を持つ」ことも体験できないでしょう。



 そして「それができるかできないか」、ではなく「やりたいかやりたくないか」を大事にすることがその人の意志の強さを高めると言われます。”やりたい”として自分で選んだのであれば、辛いことが起きてもその辛さをこえて努力しなければならないことを体験できるでしょう。



 「今自分は何をすることに責任を持っているか」を感じとる力をつけることも大切です。



 たとえば、学校の宿題があるけど、ゲームもしたい、――という時、どちらを先にやるか、を考えさせる。小学生は、学校で勉強することが大事な役割(勿論そればかりではありませんが)ではないか、を問いかけることなど。



 もう一つ、みんなで考えたいこと――親として子どもに愛情いっぱい注ぐことはとても大切です。注がれた愛情があふれれば、子どもは他に愛情を注ぐことができるかもしれません。でも、いつも受身ではなく、自分が親や家族などに愛情を注ぐ機会を作ることもとても大切だと思います。



 そして殆んど家にいる子どもに「今出来ることは何だろう」「やりたいことは何だろう」と問いかけることはできると思います。やりたいことを一生懸命やり、楽しむことによって、自分を肯定したり「自分がそれをやる役割がある」という「生きる意味と価値」を感じとる力もつくと思います。



(参考文献「教育のロゴセラピー ロゴセラピー入門シリーズ5」勝田茅生著 システムパプリカ出版)

大雪

 2月は、2週続けて週末に大雪が降りました。

 関東地方ではめったにない大雪で、多くの道路で車が動かなくなり、雪に埋もれたり、山あいの集落では孤立からなかなか抜け出せなかったり、被害の大きさが連日報道されました。

 私の子どもの頃、福島の田舎にいた時は、大雪だと兄が雪の階段を作ったり、雪のトンネルをつくってくれたり、楽しいものでした。そして祖父が作ってくれたちいさなソリで、坂をすべるのも面白かったです。

 また、私が中学の教師をしていた時は、雪が校庭にかなり積もったのを見て、授業をやめて生徒達と雪合戦をしたことを思い出します。

 今回の雪の日、風邪気味で全く外に出なかったので、子どもたちが道や校庭で遊んだりしたのか、見ませんでした。報道も被害のことばかり。どうだったのでしょう。雪がとけ出した頃外出しましたが、道路沿いには雪だるまも見かけませんでした。

「生きる」とは・・・

 ひきこもっている青年たち(仲間との交流ある場合も)の多くは、一旦不登校や退学した者は、また、働けない時期が長くなった場合も、「自分は失敗した人間、社会では認められないダメな人間」というレッテルを、自分自身でも貼ってしまっています。親御さんの相談でも、「子どもが『自分には生きる意味がない、どうしたらいいのか』と親に訴えてばかりで困っている」と言われることがあります。

 ロゴセラピー入門シリーズの「教育のロゴセラピー」を読み始めましたが、「教育とは何か、教育の目標は何か」を深く考えており、考えさせられる言葉が多くありました。

 まず「何をおいてもまず子どもたちに教えなくてはならないことは、どんな状況の中でも人間が生きることには価値もしくは意味がある」という言葉です。そして現在の教育は「社会生活に必要な基礎知識を与える」ということが圧倒的に重視され、「基本的な生き方の態度を示唆する」ことについては軽視されている――という言葉。

 はっとしました。私たちは成績、学歴のみを考え、生き方については子どもたちに殆ど伝えてないように思います。

 私も自分の子どもに「生き方」「生きる意味」を一緒に考え、何かを伝えたか――とふり返ると、殆んど何も伝えてなかったと思います。そして私も親から「生き方」について特になにも伝えられなかった、と思います。

 ただ、終戦前後の幼少期は、友だちと思いきり遊び、楽しい思い出ばかりです。母親が畑できゅうりやとうもろこし、さつまいもなどを育てていて、それを採りに一緒に行くのも遊びのうちだったようです。

 9才で都会に来ても“勉強”のことはあまり重視されておらず、家でも学校の休み時間でも、ゴムとび、なわとび、毬つきなどして遊んでいました。中学になるとそういう遊びではなく、放課後3、4人で友だちとおしゃべりするのが楽しかったです。

 高校ごろからは、1人2人の友だちと心の悩みなどを話すようになりました。そして小説を読んだり、美術館や画廊などで絵を見たり、その楽しさも感じるようになりました。でも前にも書きましたが、コンプレックス(主に自己表現に対して)が強く、自信がなく、大学生の頃、「自分が生きる意味があるのか」というように疑問を感じ、でも「ペシミストのまま、不条理な人生を生きることかな――」と思ったり・・・。でも幼少時の十分遊んだ楽しさも残っており、生きることは辛いこといやなこともあるけど、楽しいこと面白いこともある――という思いもありました。「好きなこと、興味があることをしながら生きたい」と思いました。

 その後、コンプレックスを抱きながら、そして子育てしながら、興味あること、“したい”と思うことをして来たように思います。今の仕事は自分に合わない、もっと自分に合うことをしよう――思いながら。「合わない」と思った時は辛い気持になってましたが、我慢して続けようとは思いませんでした。

 さて、自分が子育てする時、私のそうした生き方は伝わったかもしれません。成績、学歴主義には疑問を持ってましたので、子どもたちに「勉強しろ」とは言いませんでしたし、楽しいこと好きなことをしていいという感じで。私も自分が好きなことをする時、大学に入り直し、建築の勉強をした時には、広島県の瀬戸内海の島に調査に一緒に連れて行ったりしました。

 色々心配なこともありましたが、3人の子どもたちは今、何とか自立した生活をしています。それぞれの生き方で。

――生きる意味の価値――

(「教育のロゴセラピー」より)

 では、私たちは子どもたちに「生き方」をどう伝えたらいいのでしょう。

 ロゴセラピーの教育観を、私のとらえた部分ですが、印象に残った言葉を述べたいと思います。

 まず「それぞれの人間がその人間がその人しか持ってない『唯一性と特殊性』がある。・・・どの子もそれぞれに異なる性格や能力、あるいは過去の経験や将来の夢をもっていて、それだからこそ、どの子もかけがえのない価値ある人間として人生のスタートラインに立っていることを理解することが教育の基本であるべき」――という言葉! 私たちは、余りにも「人と同じように」「人よりも高く」と思いすぎてはいないでしょうか。 性格気質も違いますし、色々な能力にも差はあります。

 また「人間は自分の置かれている状況で自分に最も合った行動の可能性を自分で選ぶことができる。『どの可能性の中に最も大きな意味があり、深い価値があるか』を感じることができる、にんげんは意味というものを行動の中心にもつことができる――『意味』を中心とする教育が大切だ」――と言います。

 そして「どんな人間も何かの意味を実現するためにこの世に生まれて来たという『根源的な信頼』を親も教師も持つことで、子どもも自分でも誰かの役に立つことができるという具体的な体験をして行く」・・・「人間らしく送るために必要な基本的な生き方を考えることが教育の大切な目標」だという言葉。 親や教師自身もそういう生き方をする――というのは、そう簡単ではないと思います。

 でもそれは、ささやかなことでもいいのです。野原や庭に咲く花々に感動することも、伝えられて来た文化に感動し、大事にすることも。

 また、「瞬間瞬間に意味を感じとる感受性、キャッチする感性を豊かに、強くする」ができたら!「このことは何か『意味』があるのでは?――と意識することを少しずつできていけば、と思います。

 数値では測れない、それぞれの価値、生きる意味がある――ことを何とか青年たちに、親の方に伝えたい、私自身もそういう生き方を身につけたい。これからも一緒に考えて行きたいと思います。 数値で測れることでその人の価値を決めるのではなく、不登校や退学を働いてない期間があるなど“失敗”だと思わないで、――それぞれが意味をもって生まれた、自分の生活の中で意味が与えられている。自分で意味を感じ取る力がある――と思えたら!

2014/02/01

水仙

  訪問先に向かう途中、道路のコンクリートの割れ目から水仙の真直ぐな葉が数本伸びているのが目につきました。「強いな」と心の中で思いました。1月末、寒い日です。でも道路沿いの家々の庭に目をやると、暖かい日差しがある方には、水仙の花が咲いているのが見えました。もう春が近づいている、「自然は季節を忘れない」なんていう言葉が浮かんで来ました。

 今年の冬の寒さは耐え難いものを感じて、今年は特に寒いのか、・・・体力的に落ちてきたのか、など考えますが、年相応かもしれません。はがゆさも感じますが、これも”自然”なのかもしれません。庭の雪柳にも小さな芽がびっしりついているのが見られ、春は”遠からず”やって来るでしょう。もう少しの辛抱です。


「少女は自転車に乗って」

 若者たちは、これから体力、精神力も伸びて行くはず、今”ちぢこまって”いても”春が来る”と信じたいのですが、なかなか難しい面があります。自分には”未来がある”と思えない――家にひきこもっていても、他の人と交流がある場合も――若者が多くなっているように思います。

 去年11月の会報で”孤立無業”について述べました。

 社会の中で、「自分は受け入れられていない」「自分の居場所がない」と思ってしまう・・・なぜでしょう。

 先日、サウジアラビアの映画「少女は自転車に乗って」を見ました。そこでは女性は様々な面で自由を奪われています。女の子も外では頭から足元まで黒いサリーを着けなければならない――など。

 でも、ある小学生の女の子は近所の男の子が自転車に乗っているのを見て、「自分も乗りたい!お金をためて買うんだ!」と思い、お金をためることを色々考えました。最後は、分厚い伝統の詩集を暗唱する競技に挑みました。一番うまく暗唱できた人に賞金が出る、ということで、勉強が苦手な方なのに、一生懸命覚えて、練習して、一位になりました。

 そして、自転車屋で目に付けていて、とっておいてもらってた自転車を買うことができ、それを乗りまわしている少女の生き生きした得意げな表情!

 他にも映画やテレビで、貧しい国の子どもたち(若者の多くも)が生き生きして、キラキラした目をしているのを見ます。

 どうしてなのでしょう。(日本との違いは?)

 色々なことが考えられますが、一言簡単に言うと、「他と比較しない」ということかと思います。

 日本では他と比較して「自分は劣っている」と思うことが、小学生の頃からあるようです。中学生ではそれが強くなって、勉強やスポーツだけでなく趣味的なことも比較しがち、或いは”合わせる”ということが多くなっていると思います。

 私の子どもの頃はそんなことはなく、友だちは”遊び相手”で勉強など比較しないで、一緒に遊べばよかった時代です。

 今は、一度不登校になったり無職になったりすると「もう自分はダメだ」と思ってしまう・・・ことが多いです。

 それからもう一つ、この頃感じるのは、中近東の国々を旅するドキュメンタリー番組で、旅人が歩いているその地の人に色々尋ねると、「どうぞはいって家の中を見て下さい」とか「一緒にお茶を飲みましょう。(食事の場合も)」などと気軽に旅の外国人を招き入れるのを見て、”人への信頼”があるのだなぁ――とつくづく思います。


――他の人、他の何かに役に立つ――

 先月号では、(ロゴセラピーでは)自分だけに、自分の気持だけに目を向けないで、「他の人に他のものに目を向ける」ことについて述べました。そうした時に、自分が何かの役に立っている」或いは「人に助けられている」ことに気づくだろう――と。

 でも、その”役に立つ”ということは、そんなに大きなことではなく、子どもを育てるとか、親の世話をするとか、職場で自分に与えられた仕事をする、ということでもいいのです。「もっと社会に役に立つことをしたい」という思いも大切ですし、その思いが自分に力を与えてくれるかもしれません。(私の文に感想を送って下さった方がいて、嬉しく思いました)


――自己距離化――

 自分の視線を「他の人に他のものに」向けると同時に自分を少し離れた所から距離をおいて見ることも大切だ、とロゴセラピーでは言われています。離れた場所から自分を見たら、どう見えるだろうか――どういう自分か、客観的に見ることができ、何か気づきが起こるでしょう。この”自己距離化”の能力は他の動物にはなく、人間にしかない能力です。












――精神次元――

 「人の役に立ちたい」という思いが無意識にあって、瞬間的に行動する――ということ、例えば、子どもやお年寄りが転びそうになったら瞬時に助ける、ということを誰しも、自分がしたり、他の人がしたりしていることを見かけるでしょう。

 それは、ロゴセラピーでは人間には「精神次元」があるからだ、と言います。

 動物には身体次元(本能的なもの、体を動かしたり、体で感じるもの)、心理次元(優しさなどを感じたり・・・)はありますが、精神次元はありません。なかなか説明するのは難しいですが(私も学びの途中です)、ゼミの資料から3つの次元の関係図を転載させてもらうことにします。

2014/01/01

明けましておめでとうございます

 昨年は「これからの社会は、自然環境は、どうなるだろう」という不安になることが多々ありました。

 未来が沢山ある若者たちにとって、行き辛い社会、環境になるのでは、と心配です。

 でも、若者たちが元気を出して社会を支えてもらいたい、という願いも強く感じます。

 今年も皆さんと共に、支え合い、学び合いながら、できることを精一杯やって行きたいと思っています。

 今年もどうかよろしくお願いいたします。

和田ミトリ

 青年たちと共に成長

 先月号では、生き辛さを抱える青年たちの気持ちが、(ある程度)解る、というようなことを、そして、それは自分が若い頃から、話すことが苦手、というコンプレックスを抱いて来たから、だと述べました。

 でも、道草の家を開いて13年余、青年たち(女性、男性)と、そして親の方たちと関わりながら、自分も変わって来た、成長して来たということも感じます。

 先日、「クリスマス&忘年会」を開き(青年たち6人、大人3人参加)、ひとり一人に対し他の人が「いいと思うところをほめる」ということをしました。

 私の番になった時、ある青年が「和田さんは面白い」と言いました。

 意外でした。20年以上前になるかと思いますが、カウンセリングの勉強会で一言もしゃべらなかった(他の人に圧倒されて)時、「和田さんは何も言わないので、何を考えているか分からなくて、こわい」と言われたことがあり、”面白い”とは程遠い、と思ってました。

 でも、開設後、青年たちと話す中で、そういう自分も出て来たのだ、そして、よくしゃべるようになった(若い人の”興味”のことでは、話題について行かれない時もありますが)ことは自分でも感じています。

青年たちのそれぞれの思い

 クリスマス&忘年会で、「今年はどんな年だったか、来年はどういう年にしたいか」を尋ねました(「青年の思い」に掲載)。

 「来年は少しでも前進したい」と言った青年と「諦めたら楽になった。ごみ拾いなどのボランティアをしている」と述べた青年がいました。

 「前進したい」と思いながら前進できなかった1年。「来年こそ少しでも前進したい」と思う意欲、そう思う、思える気持、今があるのだな、と思います。一方、「諦めたら楽になった」ということも、「ちゃんと働かなければ」と今の自分には階段が高いものを求めすぎると、自己否定感が強くなり、かえって動けなくなります。”理想”を諦めて、楽な気持になり、”今できることをする”ことにより、行動することもでき、自己肯定感も出て来ると思います。

 それぞれの思い方で自分を大切にし、自己肯定感を高めてほしいと思います。

まなざしを他の人に、他のものに

――生きる意味――

 最近、ロゴセラピーを学び始めました。

 昨年の4月号でビクトール・フランクル(ナチスがユダヤ人を収容し、虐殺したアウシュビッツから生還した精神科医)の著書「それでも人生にイエスと言う」について述べました。

 フランクルは戦前もロゴセラピーについて考察していましたが、解放後は収容所体験から、さらにロゴセラピーを深め、そして世界に広めました。沢山の書を著わしましたが、3冊ほど読みながら、ロゴセラピーは技法を使うというより、”生きる意味”を生き方そのものを問うもの、ということに魅力を感じるようになりました。

 オーストラリア在住でロゴセラピストの勝田茅生さんが日本で開くロゴセラピーゼミに参加したり、勝田さんの著書を読んで、まだ不十分ですが、魅力を感じた主なことを述べたいと思います。

 私たちは、特になかなか社会の中で生きられない人たちは、「自分は生きる意味がない」と思いがちです。

 でもロゴセラピーは逆の視点で、「人生は、社会は自分に何を求めているか、が問われている」のだと言うのです。

 それについて、次のようなことから述べたいと思います。

 心が落ちこむ青年にとって、その苦しみは大体において人との関係で(個人的にも、職場などグループの場でも)「自分は失敗した」「嫌われている」「自分はダメな人間だ」など、自分を見つめ、自分を責めることから起きていることが多いと思います。

 自分を見つめ反省することは大事だと、一般的にはよいことのように思われています。でも、それによって成長して、その否定感から抜け出すことは、容易ではないように感じます。

 トラウマを解消する心理(精神)療法も色々あり、最近ではEMDRが効果がある、とテレビでも放映されたりしましたが、次から次と、思い出すトラウマ(今の辛さの原因と思われる)一つ一つ消していく、――そして「まだ辛い」――それは「こうしたトラウマだ」ときりがないように思います。

 気分が落ちこみがちで心が苦しくなる青年に聞いても「自分を責めても、反省しても辛いだけで意欲も出て来ないし、癒されもしない」と言います。

 ロゴセラピーでは「自分だけに目を向けないで、他の人に、他のものに目を向ける」ことの大切さを言っています。他の人、他のものに目を向けた時、ささいなことでも、「自分が役立ったんだな」或いは「あの人が自分を助けてくれた」とか「好意的な目を向けてくれた」など、見つかることがあると思います。

 これはコペルニクス的転回と言えるかもしれません。コペルニクスが天動説から地動説に変わったように、「世界は社会は、自分中心に回っている(自分の存在は世界の中で最も重要)」のではなく、「自分は動いている世界、社会の中で、他の人、他のものと共に生きている」ということだと思います。

 自分の心の中だけを見つめ、とらわれるのではなく、他の人、他のものに目を向けて「自分は他の人に、社会に役立つことがある」という思いになれたら、それは「人生は、社会は自分に何かを求めている」という思いへとつながり、そして”生きる意味”につながるのでは、と思います。

 すぐには、まなざしを、他の人、他のものに向けることはできないでしょうが、意識して、少しずつ心がけて頂ければ、と思います。

(参考文献「ロゴセラピー入門シリーズ」勝田茅生著 (株)システムパブリカ)