2013/04/02

3月

  3月は何かあわただしく過ぎたように感じます。

 冬のような寒い日も結構あって、いつ春になるだろうと思いましたが、初夏のような日が来て一挙に桜の花がほころびました。梅も桃も木蓮も。道草の家に降りる階段の横の雪柳も、白い小さな蕾があるな、と思った翌日、もう白い雪をかぶった柳の枝々になりました。

 でも、3月は2年前に東北大震災があった月、11日の前後にはテレビも新聞も、まだ殆ど復興とは言えない被災地を写し出していました。また原発についての報道も、見通しのたたない難しさばかりを感じさせるものでした。どう考えたらいいか、疑問ばかりですが、意思表示したり、行動したりする力のないまま、気が重く、つきつめないで過ぎていきます。

 今朝、うぐいすの小さな鳴き声を聴きました。いつもは4月か5月頃に聴くのですが。

イタリアの小さな村の人々

 前にもこの欄で書きましたが、テレビの「小さな村の物語 イタリア」は本当に心を癒してくれます。毎回2人の初老の男女を中心にその生活(仕事も含めて)を追ったドキュメンタリーです。一度は他の地域で暮らしたり、出稼ぎに出たものの、父親から「戻って来て、一緒に仕事を手伝ってほしい」と言われ、「やっぱり、自分が育った故郷がいい」と言って戻ってきた――という場合が多いです。

 子どもたちの兄弟も、殆ど近くに住んでいて、すぐに集まって一緒に食事をしながらおしゃべりがはずみます。「父親を尊敬している」という言葉が出たりします。また、老人になっても、友だち同志でしょっちゅう集まって、居酒屋の場合もありますが、木陰のベンチに腰かけながら楽しそうに話し合っています。「沢山の思い出があるから話はつきないんだ」と言ってます。

 勿論、イタリアの中には生活が厳しくすさんでいる所もあるかと思いますし、この村は気候が穏やかで小さな村、ということもありますが、穏やかに過ぎて行く日々に憧れさえ感じます。

 私たちの生活とどこが違うのでしょう。そこでは、子どもは親の仕事を一緒に手伝いながら、或いは見ながら育つ。特に親が意識して「いい子に育てよう」とか、勉強ができる子」にとか「仕事は厳しいから頑張れる子に」とは思っていないように思います。日本では少し前までは「親の背中を見て子は育つ」と言われてきましたが、イタリアでは、国民性もあるのでしょうが、おしゃべりが好きで、親子、家族がおしゃべりしながら向き合って過ごしているように思われます。

「いい子」「いい人」

 相談を受けているお母さんたちから、人と交わらず殆ど家から出ない状態からなかなか抜け出せないお子さんについて、「いい子だったのに」とか「いい子に育てようと思うことのどこが悪いのでしょう」と聞かれたりします。2月、3月号で”普通”についての疑問を述べましたが、”いい子””いい人”についても考えさせられます。

 「いい子」とはどんなイメージでしょう。「素直で協調性のある子」「まじめで頑張る子」というような、そして「勉強ができる子」がつけ加えられたりします。「いい子」「いい人」と思われるのは心地いいものです。でもそれはあくまでも”相手にとって””親にとって”の「いい子」ということになります。本人にとっては親に認められることは嬉しく、親の期待にそうようになって行き、自分の気持を抑えたり、自分の本当の気持を自覚しないままに大きくなります。

 でも、学校などで様々な子と出会えば、だんだんといつでも「いい子」でいることは、みんなに合わせることはしんどくなって来ます。自己主張ができない、けんかもできない・・・。

 イタリアの小さな村では(これは一部の村?でもこの番組は毎週ずーっと続いています)ゆるやかな時の流れの生活、また気質のせいかもしれませんが、どんどん自己表現して、相手と違っていてもそんなに気にしないようです。また人より立派にならなくては、人より成功しなければ、という思いもあまりないようです。日本のような経済原理が優先して「より多く」「より早く」「より高く」を目指すことがなく、日常的な家族や友人との交流を楽しんでいるように見えます。

 日本が経済的に豊かになった今、でも格差は大きくなり、ひきこもる青年(成人)やニート、家族関係が切れてホームレスになる若者や老人が増えているのはなぜでしょう。そして悩み苦しむ青年たち。

 いつも思うことですが、道草の家で関わる青年(男女)たちは皆、感性も知性も豊かなのですが、自己否定感が強く自信がないため、社会に出られない―もっと自己肯定感が持てれば、社会に出られるのに――と強く感じます。

 青年の集いでは「自分の言った言葉が相手にいやな思いをさせたのでは?」とか、「相手の言葉で辛い思いになった」などが話されます。過去に傷ついた体験があるので、とても気になるのでしょうが、「人にいやな思いをさせることはよくないことだ」「いい人であるべき」という日本人の価値観の影響もあるかと思います。

 そしてある青年は、「誰にも合わせられる会話をしたい。それができないと社会にでられない」と思い、人の中に出て訓練しようとしましたが、無理だったようです。それは自分の本当の気持を無視することであり、かえって精神的辛さが増してしまったのだと思います。

 その後、「”誰とでも”ということではなく、興味が同じだったりして、話が会う人とだけ話せばいいんだ」という気持になった、と言っています。本当にそうだと思います。私も興味が同じような話が合う人が少ない友だちになっています。

 もう一つ「我慢強さが美徳」という日本の価値観も生き辛さを増していると思います。いじめやグループにはいれないなどで学校に行きたくない気持になあっても「学校は行くべき所、我慢しないと!」と言われ、我慢して登校したため、どうしても登校できなくなった後、なかなか回復はできず、ひきこもる生活へ、―となる場合が多く見られます。また「転職したい」と言っても親から「石の上に3年、我慢しないと!」と言われ、我慢したために打つになってしまった、ということもあります。

 青年の集いの中で、或いはメールのやりとりなどで、自分が理想が高かったり、無理していることに気づき、価値観や生き方を少しづつ変えて生きたい、という気持になった、という青年もいます。

 自分の気持を大切にして、自分ができることを細やかなっことでも、精一杯やることに意味があるのかな、という気もしています。