2012/10/03

遊び、いじめ

  子どもの頃、自由に遊ぶとは楽しいし、友だちと遊べばけんかもするけど、人間関係を学べる。そして何よりも「生きることは楽しい、楽しいことがあるんだ」という思いを無意識にも植えつけられると思います。大人になって、辛いこと、しんどいことも多くなりますが、「楽しいことをしよう」「楽しみたい」という思いが浮かび、何らかの形でそれができるのではないでしょうか。

 子どもの頃、9才までは田舎に住んでいて、自然の中で思いっきり遊んだ思い出。友だちとれんげをつんで首飾りにしたり、れんげ畑ででんぐり返しをしたり、栗の実を拾ったり、いなご取りや落ち葉拾いは授業中にやりました。小高い山の中腹の大きな石の上でままごとをしたり・・・今でもそういう遊びをしたいと思いますが、そうはいかず、時々旅行をしたり、木々が繁る公園に行ったり、青年たちと紅葉狩りに行ったりしています。そしてそういう場面が出る映画やテレビを見たり、絵本を見たりしています。絵などの展覧会などに行くのもそのつながりかと思います。私にはそのような解放感を感じる場が必要なのですが、それぞれにそれぞれのものがあるかと思います。

 最近、「いじめから自殺」という痛ましいことが続いています。

 いじめの暴力を“犯罪”として厳しく扱う―という意見も出ていて、それは必要だと思います。いじめる側の子どもの心はどんなのだろう、と考えます。(いじめを受けた子どもが、すぐに相談できる体制ができること、いじめから逃げられる―ということも大切だと思いますが)

 多分、彼らは、満たされないもの、鬱積したものを持っているのだろうと思いますが、学校教育の中で、競争によって学力を高めようという競争主義が(経済発展の競争主義)学校の仲間を支え合う、助け合う仲間としてでなく、競争相手になってしまい、心を許せる友だちとは見ない、ということがあると思います。

 そして子どもたちに自由な時間がなくなった。帰宅後も塾やお稽古事にとられ、携帯を見ている時間が長く自由に友だちと心身を思い切り使って遊ぶという時間と空間が少なくなった(殆どない?)ことが大きく影響していると思います。

 遊びは自分の意志で行動する、その中で自分自身の主人公になる、自分が自分の主人公であることは楽しいことですし、主体性と自己肯定感を持つことができ、自立の力をつけることになると思います。

2012/10/02

自己否定感、自己肯定感について

  先月と今月、青年(20~30代男女)たちに自己否定感、自己肯定感について尋ねました。(会報に載せてないものも)。中学生の時にいじめに会って不登校になったり、摂食障害になったり、そして高校も登校できず、次第に自己否定感が強くなったと思われます。

 その後親の理解を得られるようになっても、なかなか自己否定感から抜け出せない。それは競争主義が学校にも根強く、どうしても人と比較してしまう。また、ひきこもっていた時期が長いと、「ふつう以上にならないと社会の人から認められない」という思いにもなります。

 日本は「個人個人を大切にしよう」という社会、教育ではなく、「努力すればできる、頑張ればできる」と言う。でもいくらそう言われても、それぞれ、能力や性格に違いがあります。「何のために頑張るの?」自由な時間、楽しみ、遊びも犠牲にして――と私は思ってしまいます。

 そして、中学生ぐらいが特にあると思いますが、仲間グループにはいれない子は教室に居づらくなる、同じ興味を持たないとグループにはいれない、また「空気が読めない」ということも非難の対象になったりします。

2012/10/01

思春期

 道草の家で青年たち(主に女性ですが)と話をすると、自分の思春期、青年期を思い出し、重ねるところがあるようで、ふっと懐かしさを感じます。20代の青年は私にとって孫ぐらいになりますが、私の子ども(今、40代半ば)の思春期を思い起こし出しますし、三世代の思春期、青年期、20数年づつの差の中で、共通なところと社会、学校などの変化の影響も強く感じます。

 子どもから大人になる過程の思春期、私自身も、自我に目覚めて思い悩む時期でした。でもそれを話す友だちがいました。

 今、道草の家に来ている女性は、中学で不登校になった人が多く高校も登校できず、20代初め(或いは半ば)まで強い屈折の中にいたり、高校に行った人も心の悩みを話す友だちはいなかったようです。

 道草の家が、そうしたことを話す場、機会になれば、と思います。思春期は親から自立して行く時期ですが、不登校などであることの苦しみ(自分を責めて)が強く、親は守ってあげなければならないということもあり、親ばなれは遅くなります。依存関係になってしまうと、それから抜け出すのも容易ではなくなります。