2011/12/01

北東北の秋

 11月初旬、親戚の法事の後、足を伸ばして、青森県の十和田湖とそれから流れ出る奥入瀬渓流に行って来ました。流れに沿って遊歩道があり、小石が見える、すきとおった水を間近に見たり、川岸に茂る木々も半分落葉となり、鮮やかでない紅、黄色の葉がかえって穏やかな色合いとなって、その間を歩くのは、とても心が安らぎ落ちつきました。渓流はゆるやかな流れと、岩にぶつかる激流をくり返しながら流れており、また、両側にそそり立つ岩山から様々な滝が流れ落ちていました。穏やかな流れにほっとし、激流や滝の激しいしぶきや音には自然のエネルギーを感じました。心が沸き立つような・・・。どちらも心を豊かにしてくれる。自然は穏やかなもの(時)もあり激しいもの(時)があります。そうした自然と共に生きているのだと改めて思いました。(東日本大震災はあまりにも激しいものでしたが)
 もう12月、あと1ヵ月、いつものことながら何と早く過ぎることでしょう。特に3月11日の大震災と原発事故、復興の目処もはっきりしないまま、月日が過ぎてしまいました。私自身も具体的には何もしてない、できない・・・申し訳ない気持ちです。
 道草の家も、そんなに大きな問題もなく過ぎて来ましたが、余り活発ではないようです。もう少し活性化できないものかと思います。6頁でもお願いしましたが、親の方たち、支援者の方たち、読者の方たち、道草の家の活性化のためにご協力を是非お願いします。

育つ過程
 生きづらさを抱える青年たち、精神的な不安がありなかなか人と交われない、働けない、人とも(親とも)殆ど話をしない青年たち、そしてそういう子どもを持った親の方たち、そうした青年や親の方の話を聞き、関わるとき、生きづらさ(ひきこもったり)は生まれた時から今までの過程があったはず、どういう育ち方、子ども時代だったのだろう、親や家族学校や近隣の人などの関わりはどうだっただろうという思いが浮かびます。生まれつきの気質もありますが、環境、関わる人たちの影響も大きいと思います。
 色々と絡み合い、積み重なっていますが、子どもは生まれた時から順々に成長するものだと思います。体が少しづつ大きくなり、体の動きもできることが順々に増えていくように。一足跳びということはなく。心も体も順調に成長と言う場合も少なく、滞ったりゆっくりだったり、バランスを崩すこともあります。
 私自身はどうだろう、どういう育ち方子ども時代だったろう、また私の子どもたちはどういう子ども時代をおくり、生まれてから大人になるまでどんな育て方をしたのだろうと考えたりしています。

愛着障害
 そんな折「愛着障害」という本に出会いました。
 「愛着」は心理学の用語として知っていました。戦災孤児が施設で育てられると、一人の養育者ではなく複数の養育者に育てられるため、人と親密に信頼を持って関わる「愛着」が育たないということでしたが、この本ではそうした特殊な子ども達の問題ではなく、一般の子どもにも当てはまるし(発達障害と思われる中にも)大人にも広く見られる問題だというのです。
 「愛着」は、人と人の絆を結ぶ能力、その人の人間関係の基礎となるものです。生き辛さを抱えている人、うつや不安障害、アルコールや薬物の依存症やパーソナリティ障害など、そして、対人恐怖が強く、人と交われない、社会に出られないひきこもる青年たち(家から殆ど出られない人から居場所にこられる人、様々ですが)にとっても、大きな影響を与えていると思われます。
 愛着の基礎は、まず、生まれた後、3才くらいまでに、母親(養育者)との親密な関係で形成されます。泣けばすぐ来てくれる。お乳を飲ませてくれる、自分を守ってく人として母親の顔を覚えます。そうして育った愛着を基地としてだんだん他の人に関心が向かう訳ですが、その前に「人見しり」という状態が出ます。それは、母親と、その他の人の顔がはっきり見分けられるからで自然な育ち方です。ただ母親と子どもの間に安定した愛着が育つためには、母親が安定した気持ちでいること、それには、父親との関係、家族との関係などが安定しており、母親を支えることが必要です。
 母親が不安定だったり、養育者が変わったりすると安定した愛着が育ちにくくなりますが、養育者が変わっても十分な愛着と親密さで育てれば、愛着は形成されます。放任や過保護だったり、勿論虐待があれば、育ちにくいといえます。
 安定した愛着が形成されている人は「安全基地」となる人がいる。自分が愛着し信頼している人が自分をいつまで愛し続けてくれることを確信しており、愛情を失ってしまうこととか嫌われてしまうなどとは思わない。そして、人の反応を肯定的に捉え自分を否定しているとか軽蔑しているなどと誤解することはない。また自分の意見や気持ちを率直に表現できる、それは相手を否定することではなく相手を信頼し尊重しているからこそ本音で話す・・・ということなのです。
 私は親友に率直に話せますが、いつもそれができるわけではなく、思ったことが言えないことが良くあります。それは9歳のとき養女になったため、養母との安定した愛着が形成されなかったからかと思います。道草の家に来ている青年も自分の言葉が相手を傷つけたのではないか、嫌われてるのではないかとしばしば思う
と言っています。
 自分を信頼し、相手を信頼する安定した愛着が十分に育ってない人は多いと思います。それは今からでも育てられる。取り戻せると著者は言っています。(紙面の関係で詳しくは述べられませんが)
◎「安全基地になる存在」があること―親との関係を改善することがもっとも望ましいが、家族、友人、恋人、パートナー、教師、カウンセラーなどがその存在になり得ます。
◎「愛着の傷を修復する」こと―一つは幼い頃の不足を取り戻す。それには「子どもの頃からやり直す(退行も大事です)。幼い頃の状態や問題を順次再現しながら、幼児期、児童期、思春期、青年期の段階と成長していくことが可能です。そして子どもの遊びが子どもの心の回復につながり、子どもの遊びを十分すれば、児童期の段階を過ごせ思春期に進むということも可能になります。(私は子どもの頃、楽しく遊んだ思い出が沢山ありますが、青年たちはあまりないようです。今からでもいっぱい遊んだらいいと思います。
 もう一つは「傷ついた体験を語りつくす」こと―傷ついた体験と向き合い封印してきた過去を整理し、統合し直す作業に立会い、媒介する人が必要。専門家の役割になるかと思います。
 著者は、多くの例をひきながら、くわしく述べています。「愛着障害」という視点は考えるべきことですが、余り深刻に考えすぎてもいけないと思います。(「愛着障害」岡田尊司著、光文社新書―多く引用させて頂きました)