2013/12/01

時間の流れ

 もう1ヵ月足らずで今年も終わろうとしています。

 本当に時間は早く過ぎていきます。子どもの頃はこんなことは考えなかった。過ぎた月日のことを考えたり、未来の月日のことを考えたりはしなかった――。それは多分、毎日楽しく遊んでいたからだと思います。もう何10年も前の私の幼少時期は勉強(成績)のことは、みんなあまり考えなかった、親も毎日の生活に追われて、子どもの勉強のことは、あまり頭になかったように思います。

 私の幼稚園、小学校の頃の思い出は友だちと(時には一人で)遊んだことです。大人になるにつれ過去のこと未来のことを考えるから、「楽しかった」ではすまない色々なことを考えるから時間が早く過ぎるように感じるのでしょう。「早く過ぎちゃうな」とか、「自分は一体何をしたのだろう」と思うと、「こういうことをした」とはっきり言えないような日々・・・

 でも体や心の苦しみを感じる場合は「こんな時間は早く過ぎてくれ!」と思うでしょう。私はそうした苦しみがなかった、とも言えるかもしれません。

 皆さんは、今年はいかがだったでしょうか。



 先日、青年の集いでコラージュをやる時に、雑誌をめくりながら、写真を見ていると、グレーがかった紫色の雲と白い雲が山なみの上に棚引いている写真が目にとまりました。「これだ!今日のテーマは”雲”にしよう」と思いました。でも雲の写真はあまり見つかりません。青年たちが雑誌から探してくれて、白く棚引く雲や白いむくむくした雲、日の光に反射する雲を見つけてくれ、それを組み合わせて貼ることができ(白い紙に)コラージュが完成しました。壁に貼り毎日眺めています。

 道草の家の西側の窓から、西の空が見えます。大きなビルがありますが、その両側に夕焼の空が見え、とてもきれいです。

 3、4年前、東京湾の向こうに夕日が沈むのがとてもすてきだ、と聞き、青年たちと50分位歩いて検見川浜に行ってみました。

 湾の向こうの低い山波(陸)の上に夕日が沈むのを、ゆっくり見ることができました。

 ちょうど、空低く雲が棚引き、夕日に映えて茜色に染まっていました。夕日が海に塔のように写り、波にキラキラするのもすてきでしたが、雲があることが、より美しく、自然の神秘さに感動したことを思い出します。その後も「また行ってみたい」と言いながら、のびのびになってますが、”来年こそは”と思ってます。

生き辛さ(私と青年たち)

 子どもの頃、若い頃のことをつい数年前のことのように感じたりしています。今来所する20代の青年(女性、男性)とは半世紀も年が違うんだな――改めて思います。半世紀も違っても私の子どもの感覚で関わってます。勿論「よく解る」というほどではありませんが、「かなり、ある程度解る」と思うことが多いです。

 それは「生き辛さを感じる」という点で共通なところがあるからでしょうか。私はどちらかというと、生き辛さを感じながら生きて来ました。青年たちの生き辛さはもっともっと強いものとは思いますが。

 「思ったこと、したいと思うことが”できない”」という実感が私にあることが、青年たちの思いがある程度解る――ということにつながるのでは、と思います。

 親の方たちから「自分は頑張って来た、頑張って働いて来たのだから、子どもも頑張れば働けるはずだ」という言葉を聞きます。

 私はあまり「頑張った」という記憶がなく、何回も挫折しましたが、頑張らず、(頑張れず)方向転換をして来ました。

 私の大きなコンプレックスは、人前で(グループでも)話す時、とても緊張して思うように話せない(全然話せない、話すことが浮かばない)――ということです。ちゃんと話したいと”思ってもできない”ことです。

 来所する青年たち、私の若い頃より表現力がある青年が多いです。私が「もっと自信を持ってもいいのに」と言いますが「いや、自信は持てない、まわりに合わせて話ができない」とか、「もっと気がきかないと」とか「会話が続かないのでは」などの答が返って来ます。”傷つき体験”があり完璧主義のところや気質的にも繊細なのだろうと思います。(私はそれほどではありません)

 私は思春期頃からコンプレックスを持つようになりましたが、それまでは無邪気に楽しく遊んでいた、という記憶があります。でも中学後半から反抗期になり、母の性格(完璧主義、支配的)もありますが、過保護、過干渉がとてもいやになりました。でもその気持を母に伝えられず、自分からあまりしゃべらない、(もともとおしゃべりではなかったのですが)そして”話すこと”にコンプレックスを持つようになりました。人前で話せない(高校の授業で当てられた時の声は「蚊の鳴くような声だ」と男子生徒に言われました)。特に社交的な場面では「どう言ったらいいか」「どう判断したらいいか」――表現力、判断力に強いコンプレックスを感じるようになりました。

 それでも色々活動して来たわけですが、著名な心理学者(波多野完治)の本「コンプレックス」という本を読んだ時、その中の「コンプレックスはエネルギーになる」という言葉に、「私はこれなのかも」と思いました。家庭にいる専業主婦だけの生活では私は「もんもん」としてしまうように感じました。

 そして、私には青年の多くが体験している学校での”いじめ”の体験はなく、また子ども時代に楽しく遊んだ体験があって、人生には楽しいことがある、楽しんでいいんだ――との想いが心の底に根づいている――ということが青年たちとの違いでもあるかと思います。

自己肯定感をとり戻そう

 青年たちには、これから”何10年”という”未来”があり、色々な可能性(自分に合ったことができる)があることを信じてほしいと思います。私はいつの間にか”何10年”ではなくなった――でもそれを気にしていても仕方がありません。今日、明日、来月、1年位先の計画を考えながら、”できること”をしたい、と思っています。

 青年たちも”できることをして行く”という積み重ねによって可能性が広がるし、ある程度の目標「こうなりたい、こういうことをしたい」に向かって少しずつ考えたり、実行して行かれれば、と思います。

 また、青年たちは、知的な能力、表現力、想像力を持っているのに自信がない、自己肯定感が低いと思います。「自己肯定感」をとり戻すには、育てるにはどうしたらいいか、どう考えたらいいか、一緒に考えて行きたいと思います。少しずつ、焦らずに。青年の集いや人間関係講座(来年も月1回開きます)で話し合いたいと思ってます。