2013/09/01

変わらない古里

  8月下旬、福島市で開かれている「若冲が来てくれたプライスコレクション江戸絵画と生命」を見に行きました。

 アメリカのコレクターが震災の被害が大きい東北3県だけで開く、ということで、また福島の実家にも寄れるということもあり、2日間でしたが、凝縮されたような旅を体験しました。

 まず、東北新幹線、車窓からは緑の田んぼが広がっているのが見え、ほっとした気分になりましたが、東京から福島まで1時間20分、「こんなに速いのでは旅を味わう余裕もない」と思いました。とは言え、私は一番短時間の列車を選んだのですが。昔、学生の頃、東京から名古屋に帰る時、急行券がもったいないと思い、鈍行に乗ったことを思い出しました。急行では7時間でしたが、途中、浜松で降りたりして10時間位かかったと思います。

 美術展は全部で100点。墨絵もありましたが、色鮮やかなものが多く、おおらかさを感じ、また、屏風絵(2対)はとても大きく、とりわけ若冲の「鳥獣花木図(花も木も動物もみんな生きている)」は圧倒されました。

 さて、福島の田舎の小さな町、9才まで過ごしたのですが、その時の思い出、記憶を確かめたいと思いました。森の中の神社、お祭りは夜で、両わきにローソクが灯っている石段を登って行った記憶、とても楽しかった――その神社を探しまわりましたが、見つかりませんでした。神社は沢山あったのですが。

 でも、私が通った小学校の空地を通った時、こんなに狭かったのか、と驚きました。コの字型に校舎と講堂が並び運動会をする運動場も広かったように思います。

 また、姪の車で、白河市近くの老人ホームにいる姉に会いに行く途中、私の生まれた村を通ってくれて、「ここら辺よ」と教えてくれました。周りは低い山並に囲まれて、緑の田んぼが広がる中に、小さな森と数軒の家がかたまっているのが何箇所かありました。「昔と今、変わってないかもね」と話し合ったことでした。

 姉は6才上ですが、子どもの頃のことはよく覚えていて、「みんなパンツ1枚で裏の川に泳ぎに行った」など話してくれました。私も、川でよく泳ぎ、川辺の砂で落とし穴を作ったことを思い出します。

 実家は福島県の南の方の山あいにあり、放射能の数値も低く、のどかな雰囲気で、子どもの頃とそんなに変わっていないことを感じた旅でした。

所属欲求、承認欲求

 でも、日本の社会は70年前と、いや4、50年前とも大きく変わりました。生き辛さを感じる人が非常に増えた、と思います。日々それを感じます。私が関わっている青年も、また情報として見聞する中でも。

 社会(学校や職場など)に出られない青年たち(居場所に来たり仲間と話せる青少年と、他の人とは話せず――買物など外出することもありますが――殆ど自室ですごす青年がいます)と関わりながら、「なぜそうなったのだろう」「どうしたらいいのだろう」といつも考えているのですが、先日、なの花会の講演「なぜ若者はひきこもるのか」を聞いて、「そうなんだ」と思いました。動物と人間の違い、昔と近代社会、現代社会の違いが、私たちに生き辛さを生じさせている、のだと感じたのです。

 類人猿と分かれて、狩猟時代になると、動物と違う文化が生まれ、人間の本質として「所属欲求」「承認欲求」「利他性」を持つようになりました。

 そして、狩猟時代、農耕時代は、親が働くのを手伝い、真似することで、自分で生きる力をつけて行く、――そこでは、家族や、まわりの人々、共同体によって所属欲求や承認欲求が満たされました。

 でも、近代社会、産業化社会になると、技術、知識を学ぶことが必要になり、学校教育が始まりました。また、社会も複雑になり、社会規範も覚えなければならない、学校では、色々個人の差があるのに同じスピードで、――ということについて行かれなかったり・・・。特に高度成長時期になると、”競争”させられ、そこでは、所属欲求も承認欲求も満たされにくくなりました。

 そして、中学高校ではクラスの中にグループが作られ、そのグループから承認されることで(ひたすら、グループの人たちに合わせることで)、承認欲求が満たされる、でも合わせられない子は、グループに入れない子は、辛くて不登校になってしまう・

・・ということになってしまったと思われます。職場でも、競争や効率主義に乗れない者は認められない・・・

 社会も親も数値の大小で評価する傾向になって来て、ゆったりとその子にあった育て方が出来ない、家族の中の所属欲求、承認欲求も満たされにくくなり、グループ、集団からの所属欲求、承認欲求を強く求める。でも、満たされない・・・そうしたことが私たち、青年たちを生き辛くさせている――と思います。



 では、どうしたらいいのか。一度不登校になったり、ひきこもったりすると、そういう自分を人は社会は、認めないだろう、という思いが強くなるわけですが、親や支援する人が、「認めているよ」というメッセージを常に送ることでしょうか。

 親自身も、(私もですが)人間不信にならないよう、自分を解放したり、癒したりする時をもつことも。動物にない人間の素晴らしさもあるはず。美を、芸術を生み出し、それを鑑賞する力が、歌う力があります。また、先に述べた、利他性――「人の役に立ちたい」という思いを持つことも。

 私もしばしば「失敗したかな」と落ちこむこともありますが、それも”心”を持つ人間だから――と思い直し、”できるだけのことをすればいい”と思ったりしています。