2010/11/05

代表の言葉(2010/11)

東北の旅 

 2泊3日の小さな旅をしました。久し振り。2年前の夏、信州を旅して以来です。去年から、旅をしたい!と思っていたのが、やっと実現しました。

 やはり仕事(活動)の中で重い話を聴いたり、青年たち(男女)と関わり、”ひきこもり“に関連する社会問題を考えるのは、疲れる面もあり、リフレッシュしたい、そして、人間の生き方に何か新しい視点、心の持ち方がつかめたら、という思いもありました。仙台にいる友人や、福島にいる姉兄に会い東北の自然に触れることで。

 まず驚いたのは、上野から仙台まで1時間半もかからない、ということ。30数年前に山形へ行った時は夜行で行ったことを覚えております。

 仙台は、都心を少し離れると、森の中の道にはいり、“森の都”と言われる所似だと感じました。そして歌にあるように両岸を木々で覆われた“広瀬川”、ゴミゴミした千葉や東京近辺とは違うな!爽やかな気分になりました。

 翌日は山形の蔵王、山寺を廻るバスに乗りましたが、11月の気温になったため、蔵王の頂上に行くエコーラインは凍結してしまい、頂上には行かれず、雄大な山々は望められなくて、残念でした。でも小雪が降り出して、紅葉した葉に積もって、紅葉と雪が同時に見られ、バスの中から歓声が上がりました。雪の積もったゲレンデ(まだすべれませんが)の方に行くと、その向こうの森が雪に煙り、墨絵のようでした。

 芭蕉の句「静けさや岩にしみいる蝉の声」で有名な山寺、行ってみたいとかねがね思っていました。1000段以上の石段を登り切れるか少々不安もありましたが、何とか登れました。

 切り立った岩の間に木々が生え、何10段か石段を登ると、小さな寺があり、また登ってを繰り返し、一番上の寺(本堂)に着きました。その近くの岩の上に、はみ出したように建つ見晴し台、その上に立つと、遠くの山々が見え、胸が広がりました。帰りは、ゆっくりと、所々にある石仏、お地蔵さんに手を合わせたりしながら、降りました。

“生きもの感覚で生きる”

 仙台での夜、ホテルでの一人の夜長を、何か本を読みたいと思い、駅の近くにあった本屋に行き、「人間、金子兜太のざっくばらん(人間は自然そのもの、だからこそ“生きもの感覚”で生きよ)」という本を見つけました。兜太さんは「俳句に季語がなくてもいい」と言っている俳人ということで興味はありました。“生き物感覚”って何だろう?買いもの求めてホテルのベットの上で読んだのですが、兜太さんは芭蕉を尊敬していますが、一茶の俳句に、その生き方にぞっこん惚れ込んでいます。私も一茶が好きで、2年前の信州のたびで、一茶の故郷を訪ねました。

 以前、ほんの、ほんの少しだけ俳句をかじったことがあり、旅の途中で、こうした本に出会ったのも、何かの巡り合わせのように思いました。

 一茶の句は、「人間と自然の共存」というより人間も動物、同等の生き物、ということを詠んでいます。

「蚤どもがさぞ夜永だろさびしかろう」

という句を作ってますが、一茶も蚤も同じ気持で生きているわけです。

 芭蕉の頃は“人と自然”、その親密感を詠んでいますが、一茶になって“人間は自然だ”というところまで変わって来ました。私もそう思いたいのですが、余りにも文明、文化の発展した現在の社会で生きていて、それとどう折り合いをつけるか、まだ私には消化しきれません。

 今の私たちの心の悩み―複雑な文化に比例して深く、重くなって来ているように思います。

 一茶も兜太さんも「愚」のままで生きる、生きものとして「生々しく生きる」と言っているわけですが、自分が「愚」であることを認めれば、そんなに悩まなくてもいいかもしれません。そして、「生きもの」として、人間同志、人間・動物同志、尊重し合う、信頼し合う―ことができればどんなにいいでしょう。

 今の日本では人々は「頑張って、人と同じように、人よりも抜きんでて」ということを目指す―風潮が強い。ひとたび“ふつう”からはずれ、ひきこもる状態を過したりすると、「頑張っていない」と言われがちです。そして、そういう自分に青年たちは自己否定感を持ってしまいます。

置いてきぼり

 東京から仙台まで1時間半で行ってしまう…旅を味わう暇もなく…芭蕉は何日もかけて旅をして名句を作った、どちらが豊かでしょう。文明が発展するほど格差が大きくなり―みんなが同じように出来るわけではありません―苦悩も増加するように思います。“生きもの”としての共感も失われ、競争相手になったり、ひけ目をかんじたり…。

 小学6年の女の子が自ら死を果たしてしまった。教室で昼食をいつも一人ぼっちで食べていた、とのこと、誰も気にしなかったのだろうか、誰も声をかけなかった、どんなにかさびしかったことでしょう。耐えられなかったその思い!!

 人間も生きもの、魂を持った同じ生き物同志―という感覚が本当に失われてしまったのだと思います。

 虐待により幼児が死に至ることが多くなっています。また、子供の頃親に虐待を受け、非常な生き辛さを必死に生きて来た中年の方のカウンセリングをしてますが、子どもを育て、仕事や近所付き合いの社会生活の中で精神的な不安定さを抱え、今も生き辛さに苦しんでいます。でもまた、虐待をした親も、その親からの育てられ方によって、環境によって、荒んだ精神状態になり、子どもに当ってしまった、と思われます。

 交通機関の時間短縮を始め、短時間で様々なことができる便利さがどんどん進んでいる(私もそれを受けている)わけですが、何かを置いてきぼりにしているように思います。