「人間って理解できたことに基づいて生きるんじゃなくて、実は理解できないことを中心に生きているのだと思う」という言葉に出会い、はっとしました。(これは人に対してというより物事に対して言ってるのですが)
私たちは相手に対し「分かって!分かって!」と言うことが多い。親しい間柄――親子、夫婦、恋人、友だちなどの間で、お互いに全部を理解し理解されることを求めてしまう。
全部を「分かって!」と思えば思うほど、がっかりして相手に失望し、相手への怒りにもなってしまう…こともあるのではないでしょうか。
人それぞれ性格も気質も違うし、それまでの体験も違うわけですから、全部理解できる筈はない。親子、夫婦、恋人、友だち、そしてクライエントとカウンセラーの間でも全部は理解できない、ほんの一部しか理解し合えない――という前提にした時、「分かって貰えない」不満よりも「分かってくれた」という喜びを感じるのではないでしょうか。
自分は、人は一つではない
そして、人はお互いに理解できないことが多い――というのは、人は多面性を持っている、ということであり、また、たえず変わる、変わるのが自然だ(以前、“無常”ということを書きました)ということでもあると言えます。
人には、色々な面があり、性格も一つではない、考え方も一つではない。割と親しい人の中に「あれ?」と思うような面を見ることはないでしょうか。その場に合わせて違う面が出せた方がいいとも思いますし一貫性を求めすぎない方がいいかも知れません。余りにその人に一つのものを求めた時、失望したり、裏切られた、と思うことになるでしょう。
親の虐待や学校でのいじめにあったりすると、そうされないように完ぺきにやらなければと頑張り、完ぺき主義になりがちです。そして相手にも完ぺきを求めたり、黒白はっきりさせたい、となりがちです。それはとてもしんどいことではないでしょうか。
人は、人生は黒白はっきりできないことが多い、グレーゾーンの部分が多いし、曖昧なことが多いと思います。
自分も人も一つではなく、色々な面があり、曖昧なものが多く、お互いに全てを理解することはできない、そして自分も人も失敗をよくする、生きることは不条理なことが多い――ということを受け入れて、もう少し気持ちを楽に生きられたらと思います。
でもまた、ひと時でも人とのつながりを感じ、人と通じ合うことを体験し、少しの時間でも安らぎとか喜び、感動を感じる(それは求めなければ得られないでしょう)、生きることはそんなに悪いことばかりではない――と思いながら日々過ごせたら、と思うこの頃です。(参考文献、「14才の子を持つ親たちへ」内田樹、名越康文著、新潮新書)
和田 ミトリ