2009/04/01

生きづらさ

 冬に逆戻りのような日々はありましたが、春は確実にやって来るのを感じます。桜の開花は早いのに満開は遅い、自然は一直線には移って行かない、人間の思い通りには進まない。でも、日本は四季の変化が豊かで、自然を身近に感じられます。

 月末が近づくと会報を書かねばならないことを考え、「できるかな」という不安がよぎります。でもこうして1ヶ月を振り返りながら、感じることに集中してまとめて行くことは、私にとっていい機会が与えられている、“恵まれている”のを改めて感じます。そういう機会がないと1ヶ月、2ヵ月、漠然と過ごしてしまいます。

 青年の集いに参加している青年、訪問や電話で関わっている青年たちのことを思うと、青年たちは非常に生きづらさを感じており、心が痛みます。社会に出ている人も勿論生きづらさを感じている人は多いですが、青年たちは、そのため、なかなか前に進めない、そして、それぞれ生きづらさは少しずつ違うわけで、それを少しでも和らげていくのが道草の家の役目かなと思います。

 私自身、どちらかと言うと、生きづらさを感じて来ました。思春期頃からコンプレックスが強く、話すことが苦手、不全感を感じて、でも――だからでしょうか――社会と関わることをしたい、充実感を感じるようなことをして、身心を精一杯動かすようなことをしたいと思い、性格的に(てきぱき活動的でないので)合わないのにリーダーシップをとるようなこともしたりして、生きづらさを感じる日々を送って来ました。でもそうしたことを何もしないのも生きづらいのかもしれません。人間は単純ではなく相反する性格や思いを持つものでしょう。文明が発達し、社会が複雑になればなるほど、一層そうなって、生きづらくなるように思います。

          生きづらさと人間関係

 青年たちの生きづらさの多くは人間関係の問題のようです。「人間関係がきつい」「人間関係の作り方がわからない」「自信がない」「緊張する」など。

 「相手はどう思うだろうか。自分の言葉で相手が不快に思ったり、傷つくのではないか」「自分はこういう場(職場、人がいる場)で適切な言葉を発しているだろうか、年齢相応の話、言葉使いをしているだろうか」などとても気を使っています。気を使えないのではなく気を使いすぎています。(私は、ぼーっとした性格で母に「気が利かない」とよく言われました)。でもあまりにも、相手のことを考え、自分の気持を素直に出せないでいる、それがもやもやしたり、苦しかったりします。

 「相手を傷つけることは非常に悪いこと」という観念が強いように思います。それは自分が傷ついた体験を持ち、その辛さが分かるからでしょう。(繊細だったり、いじめを受けたりして)。人間はそれぞれ違うように、その人その人の思いがあって、傷つけるつもりでないことにも傷ついてしまうこともある、(単に考え方が違うだけでも)ということを子供の頃から認識する体験がなかったからかもしれません。その人の問題で傷ついてしまったのに、傷つけるほうが悪い――と一方的に思う人もいるわけで、傷つけたり、不快にさせることを全く避けては人間関係は築けないでしょうが、あまりに繊細だったり非常に辛い体験をしているとなかなかそうは思えないようです。また日本人は体質的に傷つきやすいということも聞いています。

         自己肯定感を得るには

 どうしたら、「少々人を傷つけるのは仕方がない」と思える、或いは深く傷つかないような自己肯定感、自己信頼感が得られるでしょうか。

 一つには「人の役に立っている」感謝され「ありがとう」と言われる体験を多く持つことかと思います。家庭の中で親や家族から「ありがとう」と言われる体験やボランティア体験をすることなど。

 そして、自分も意識して「ありがとう」と言う体験も大事では、と思います。昔から、ごはんを食べる時、「いただきます」と言いますが、稲を育てたお百姓さん、精米して、お店まで運ぶ人、お店で売るお米屋さん、そしてそれを買って来てごはんを炊いたお母さん(そのために必要なおかまやお茶わんを作った人も)…など沢山の人、八十八の手を経て食べられるようになったことを感謝する意味があって、「いただきます」「ごちそうさま」を言うのだと教わりました。

 その他、お金で色々物を買ってますが、そこには沢山の手が加えられているのですね。(お金さえあれば、好きな物が買える、好きなことができる、と思いがちですが、目の前には見えない沢山の人の手があってこそ、可能になるのだと思います。)

        心の不自由さを外したい?

 「心の自由、不自由」をもう一度考えてみますと、「したいことができない不自由さ」を第一の不自由とし、第二の不自由として「できるはずなのに」「誰でもできることを、できない自分はだめ」と自分を責めることなのですが、この第二の不自由さを感じなければ、心はそんなに不自由にならない、楽になると思います。

 つまり「うまくいかないこともある」「失敗したとしても、失敗することは本当に悪いことではない、完璧などありえない」「失敗するから何もしない――よりも、失敗するかもしれないけど、行動する方がいい」とは思えないでしょうか。

 日本人の風潮として「失敗は悪いこと」と言われ、(私の母もそう言ってました)自己責任ばかり追及されがちですが、もっと寛容になってほしいと思います。契約社会と言われ、責任も重視されるアメリカですが、失敗してもそれを回復しようと努力する人には応援支援する国民性があると聞きました。

 それから人間には先のことを考える想像力があって、先のことをマイナスに想像してしまう心の不自由さもあるわけですが、また先のことをプラスに想像する力もあるわけです。

 「自分はこういうことをしたい。こういうことをしたら自分はこうなるだろう」とか、「こういう自分になりたい」「こういう自分になりたいからこんなことをしたい」など、プラスのこと明るいイメージを抱く、それは脳を活性化させ、また脳の記憶の場所にそういうイメージが記憶されます。(SAT療法でよく言われます)。そしてエネルギーが出ます。そして明るいイメージの方に近づくことができる…可能性があります。

 人の心は不自由な面がありますが、視点を変えれば自由になることもあるのではないでしょうか。

和田ミトリ