2012/03/07

ひきこもる青年の多さ

 ひきこもる青年の居場所を開き、青年や親の方と関わる日々、適切な関わりができてるだろうか、役に立ってるのだろうか、とよく考えます。自分の生き方、考え方が問われます。

 私は高校生頃からコンプレックスが強く、思い悩むことが多く過ごして来たので、青年たちや悩んでる人、生き辛さを感じる人とは重なる部分があるのを感じます。憂鬱感を感じることがよくあるし、対人恐怖もあり、特に電話をかけるのに緊張して延ばし延ばしにしたりします。自分がしたいことを思うようにできない辛さ、自己否定感、そういう人の辛さ苦しさが割と分かります(勿論それぞれですので「よく分かる」とは言えませんが)。親の方や一般の方が「頑張って働こうと思えば働けるはずだ」とよく言いますが、私はそう思いません。「やらなくては」と思いながら、意欲や自身が出なくてなかなかできない、大げさに言えば、「自分との闘いかな」と思う時があります。

 ひきこもりの問題は前ほどメディアに取り上げられなくなりましたが、100万人とか150万人とも言われ、その数は非常に多いし、やはり個人の問題というより社会の問題が大きいと思います。社会の縮図かもしれません。

 60代の両親と30代の息子が餓死したニュース、民生委員は「30代の息子がいるから大丈夫だと思ったと」と言っていますが、多分、息子は、“働けない”、外へ出られない、ひきこもりの状態だったのではないかと思います。

 全国で150万人という数から判断すると、親や本人が居場所や親の会、相談機関に行かない場合が非常に多い(2/3以上?)と思われます。(居場所や親の会の数は、非常に多い、とは言えませんので)

 目立たないようにひっそりと暮らしているのでしょうか。働いていない、ひきこもっていることを恥ずかしい、と思って相談にも行かない、「人に相談したいと思うような人」に対する信頼がない、人間関係がないのでは、と思います。親自身もひきこもりの心の状態では、と思います。また親子の関係も、「子どもの問題なのだから、子どもの責任」と思ったり、親子のコミュニケーションもなく「どうしようもない」と諦めてしまう―という場合が多いのでは、と思います。

 家庭の中でも、近隣でも人間関係が希薄になっているように思います。

 戦後、民主主義のもとに「個人の自由」が大切だと言いながら、本当には自由ではなく、まわりを気にし、まわりと違うことを言ったり、したりすることを怖れる・・・そして人に合わせたり、比較する・・・。

 私たちは一体”どう生きたい”のでしょうか。