2016/10/02

挫折、方向転回


 先月号では私の子ども時代のことを書き、友達とよく遊んだ、楽しかった、ということを書き、それが人間信頼の基になり、生きることには楽しいことがある、という感覚を育てた――ということを述べました。

「大人になってからはどうなのか」と(会報を読んだ方から)聞かれて、ふり返えれば、数えてみれば、7回くらい挫折し、方向転回をくり返したな――と思います。

最初は中学校の教師になりました。(教育実習の時、大ぜいの生徒の前でしゃべるのは、上がってしまって自分に向かない、と思いながらも)、いざ就職になると、会社にはいり、利益のために働くより、“人を育てる”方が意義があると思い、教師の道を選びました。でも、騒ぐ男の子をなだめるのは難しく、(冗談を言ったりできればいいのですが、それも出来ない)、自分には合わないと思い、長女が生まれたのを機に5年でやめました。

色々過程がありましたが、養護施設を出て中卒で働く青少年の世話をする施設の小さな研究室4人にいた時、ある調査をし(養護施設を出た少年を、家庭で育った青年の“社会化”をアンケートして、その程度を比較し論文にする時に、担当の所を分析し論文にしたつもりでしたが、「論文になってない」と言われ、書きなおしても「ダメだ」と言われ、その研究室をやめることになった――これも大きな挫折でした。

また、転職について行ったり、話し相手になる活動をしましたが、青年、少年にうまく声をかけられません。それで、“聴く”ことを上手になりたい、と思い、ちょうど東京いのちの電話でボランティアを募集していたので、「聴くことの勉強と実践ができる」と思い応募し、ボランティアになりました。1年位たった時、事務局長から「千葉にまだないので、千葉いのちの電話を開設する発起人になってほしい」と言われました。「自分はそういう柄ではない」と断りましたが、「発起人として呼びかけるだけで、大ぜい集まればリーダーシップをとる人が現れるから」と言われ承諾しました。

でも不安はありました。「よく発起人になったわね、不安じゃないの」という声も聞こえて来ました。それでも「たとい失敗しても、やらないで後悔するよりも、やってから後悔した方がいい」とも思いました。

「千葉いのちの電話」は割と順調に開設されましたが、結局、私が事務局の主事になり、やはり事務局にたずさわるボランティアからは、批判の声が出ました。それを見かねた、私に好意を持ってくださってた方が、「和田さん、『登校拒否児のボランティア講座』の募集が新聞に載っていた、この方が和田さんに合うんじゃない?」と言ってくれ、その講座を受けました。「東京メンタルヘルスアカディミィ」(TMA)という所で、ひき続き「カウンセラー養成講座」を受け、そこでカウンセラーとしてカウンセリングをしたのですが、多くが不登校やひきこもりの青少年とその親でした。

また、TMAにひきこもり、不登校の青少年の居場所が併設されており、そこに行っている青年たちが事務所にたむろしていて、「参加費が高くて思うように参加できない」というのを聞き、「そうだ、持ち家を人に貸しているけど、契約を延長しないで空けてもらえば、あそこを居場所にできる」と思いました。その頃、船橋市の勤労市民センターの部屋を借りて「こころのことを話し合う会」を開いていたので、その仲間が、引越しを手伝ってくれ(自宅からテーブル、いす、本棚を持って来ました)、そして、集いに参加してくれました。(0からではありません)

ちなみに、その頃、東京でカウンセリングルームを開いている男性のカウンセラーに、仲間と一緒にロールプレイでカウンセリングを学んでいたのですが、そのカウンセラーは「僕だったら、こわくて居場所など開けない」と言いました。でも「私は沢山失敗をして来たので、失敗が一つ増えるだけだ」と思いました。そして、16年がたちました、色々ありましたが、あっという間でした。
 これから何年続けられるか―― 一人でも道草の家を必要とする青少年がいれば、また私のエネルギーが続けられれば続けたい。――いつまでできるでしょうか。