2017/03/06

映画「この世界の片隅で」を見て

 先月号で「この世界の片隅で」について、テレビの解説を自分のイメージでとらえて、感じたことを書きました。
でも実際に映画を見ると、私のイメージとは全然違っていました。終戦の前(1、2年)に広島から隣の呉市に嫁いだ女性が主人公で、終戦まで一生懸命生きている姿です。呉は軍港があり、米軍機が飛び、焼夷弾が落とされる日々。嫁いだ家のお姉さんの子供、4、5歳の女の子と手をつないで歩いていた時、焼夷弾(か?)が女の子に当たり死亡し、彼女も右手の手首より先を失いました。その後も左手だけで一生懸命に家事をやり(洗濯板で左手だけで洗濯したり)。そして新型爆弾が広島と長崎に落ちたというニュースが入り、間もなく終戦となりました。広島を訪れると、一面焼け野原、そこにいた女の子(家族とはなれた、亡くなったのかもしれません)を連れて、呉に戻る――という粗筋です。涙がにじみました。
 私も8才の時終戦で幼児の頃、戦争時代をすごしました。空襲には合いませんでしたが、(福島県の田舎町で)、「空襲警報」というサイレンが毎日鳴りました。郡山に工場があり、それをめがけて飛んで行く米軍機の通り道でした。夜も防空頭巾を枕元に置き、服を着たまま寝ました。空襲警報で起きて、防空壕に入ろうして外に出ると、郡山の方の空が真っ赤だったことを覚えています。
 戦争について、だれも疑問を抱かず、「お国のために戦う」と皆思ってました。ですから兵隊になる(赤紙が来て)ことを「お国のために戦う」のだという喜び(?)のようで、近所の人たちで「バンザイ」と手を上げて送りました。
 日本中がこんな感じではなかったでしょうか。大きな都市は、東京を始め空襲に合いました。田舎は疎開児童が来たり、男性は兵隊にとられ、日本中”片すみ”であっても戦争一色でした。だれも、戦争について疑ってない感じでした。
 終戦の時は、「正午に玉音放送がある」というニュースが朝からあって、正午前に近所の人が集まって来ました。そして玉音放送が終わった後、大人の人は泣いていました。天皇の言葉はよく分からなかったけど、戦争が終わった、ということは分かりました。
 さて、映画の内容とは別に「この世界の片すみで」、まわりの人々と共につつましく生きるという感覚は、素敵だと思います。皆がそういう感覚を持てれば、私たちは、こころ穏やかに生きられるのではないでしょうか。
今は他の人よりも、出世とか多くの収入がある方がその人の価値を決めるような価値観を多くの人が持っているように思います。まわりの人と一緒に「この世界の片すみで」生きる、そして、子どもが成長するに従って、”方すみ”が少しづつ広がり、家の前や横の道を少しづつ遠くまで歩くようになり、そして社会で働き、自立する――ことができる。また、そうすれば、”ひきこもり”ということも起きないでしょう。社会で働きながら、穏やかな「片すみ」を作っていく。
 今の都会生活は(千葉市も)「共に生きる」感覚は殆どない、と言えるかもしれません。
 道草の家の集いに参加する青年に聞いても、「世界の片すみに」生きている感覚はなく、働いていない自分にひけめを感じています。親の方たちも、自分の子どもが働いていないことを知られないようにしています。また近くの家でも若い人が昼間家にいたり、昼間も歩いている――と言っています。親戚にも、「言える親戚と言えない親戚がある」とも。
 でも、全くない、とは言えないでしょう。私が買い物袋を下げ、杖をついて歩いていると、「荷物持ちましょう」と言ってくれる方もいますし、小学生(低学年らしい)の女の子「大丈夫か」と声をかけてくれます。
 そう、「道草の家」も「この世界の片すみで」、心が痛んだり、傷ついた青年たちや親たちが、”道草”として立ち寄って、心を癒す場であるのだな、ありたいな、と改めて思います。