2018/06/01

生きる意味(ロゴセラピー)


先日、ロゴセラピーのゼミがあり、テーマは「充実した老いと死」で、私の課題でもあり、東京の半蔵門にある大学まで出かけました。

二日目は(一日目は同じ受講生の男性について行ったのでよかったのですが

)、道に迷い、ぐるぐる一時間くらい歩いて、大学に着きました。

エネルギー、記憶力の衰えに「老い」を感じている私にとって、身近な、大切なテーマです。

その中で印象的な言葉は、

「寝たきりになっても、自分の人生に責任を持つ」

「常に、瞬間、瞬間に意味の要請がある」

「誰でも何かが出来る――寝たきりになっても」

yes…最後のyes

「若い時から自分の人生にイエスと言う」

そして、

「状況、状況によって意味が変わり、それに対し責任を取る」

「私たちは沢山の種を持つひまわりになれる」。

私はこれらの言葉がある程度分かり、そうでありたい、と思いますが、私が関わっている青年たちには、どう伝えたらいいのでしょう。

 

ロゴゼミの1回目の資料を読み返しても、大事な言葉ばかりで、それを写しても、写しただけでは理解できないことに気付きました。

 それよりも、老いを感じていても、ひきこもる青年の居場所を開き、青年と関わっているのですから、そういう日々に感じることの“意味”を中心に振り返ってみた方がいい、と気付きました。

 活動日は、週2日なのですが、誰も来ない日が時々あります。待っていても来ない…そんな時、空しさを感じます。本を読んだり、テレビを見たりして過ごしますが、これも「意味あること」と受けとめられたら、と思います。

 1回来て、その後、来ない青年もいます。私の対応がまずかったかな、その時いた(前から来ている)青年が話しすぎたのかな、など悩みます。私が、ここの事、居場所の事、説明したい事を全部話したのです。

 ここ(道草の家)に来る青年は、仲間と話したい、と思って来る青年が多いので、割り合い話は続きます。また、なかなか話に加われない青年のためにも、また、相手のこと、相手の言葉を気にしすぎて“自由”に話せない、窮屈さを感じる青年たちのためにコラージュ(雑誌の写真を好きに切り取って画用紙に貼る)や、パステル画(写生でなく自由にぬる)などをやっているのですが、「自由――って言われるとかえって困る」と言った青年もいたりします。

 青年たちが色々な体験ができることが“意味”あることだ。と思いますが、青年が来ないーーということは??

 もっと、「居場所の意味」を宣伝することとか、その工夫をする、とか、青年自身にも考えてもらう――と、ふと思いました。それは、”意味”あることでしょう。

 また、青年たちに生きる意味を考えながら生きる事、自分には誰かのために、何かのために、役立つことがあること、を感じられたら、と思います。