2008/05/01

生きる支え

 <青年の思い>の中でも青年が言ってますが、皆さんにとって生きる支えになっているのは、どんなことでしょうか。今まで生きて来た、生きるエネルギーになった心の支えは何でしょうか。
 心の支えがあれば、辛いことがあっても生きられる――と思いますが、そういうものが何もないために、自殺してしまう。自殺はしないけど、前に進めない・・・「心の支え」を自覚しないほど、生きるエネルギーがある人もいるでしょうが、意識してなくても、自覚してなくても、何かありそうです。エネルギーがない場合は、何らかな支えが必要かもしれません。
 「働く」ことが現実的に(実行できると)は考えられなくなった青年、自分には親から心の支え、生きる意味を与えられなかった、子供の頃育つ過程に形成されなかった。そして今の社会は困っている人、悩んでる人、働けない人を“支えよう”とはしない社会だ――と思う青年。一方では“助け合う”ことが大切だと言われながら。
 まず、親から与えられる、育まれる、生きるための心の支えは?“自分は生きていていい存在だ”と感じられること、それは親から、まわりから愛され、認められれば、或いは、生きることを肯定し、楽しさとか生きがいを感じている親の生きる姿を見て、“生きることはいいことだ”と感じることではないでしょうか。或いは、親の言葉で生きる意味を感じたり・・・
 私の場合、思春期から親の過保護、過干渉に反発を感じながら、それを言えず、悶々とするうち、コンプレックスの塊になりました。でもその割には積極的に生きたと言えるかもしれません。それは、自分に合った仕事をして充実感を感じたい、という気持ちがあり、好奇心も強かったからかと思います。
 親から無条件に愛された、という感覚はないのですが、(そのため、否定的なことを言われると動揺します。だいぶ軽くなりましたが)子供の頃楽しく遊んだ、ということで生きる楽しさも感じられて、人間を、人生を悲観的に考える面と、人生はいやなこと、辛いことばかりではない、と思う面がありました。何度も挫折しながら「もっと自分に合った仕事、活動がある」と思ってきました。諦められないものがあったようで、それがエネルギーになったかもしれません。
 両親の仲が悪かったり、余りにも人に気を使ったり(自分を大切にしない)する親を見て、「生きることを肯定できない」感じになることもあるでしょう。
 そして、日本の社会は、精神面の弱さ(と言っていいか、感受性が強く、考え、悩むタイプ)を認めない社会です。「働けない」人とか精神的な病気になる人を受け入れない、優しくない。思い悩み、進めない人に手を差しのべる雰囲気でない。「社会の人たちは、自分のような人間を認めない、拒否している」――“支えられてる”という感覚がないため、安易に自殺してしまうのではないでしょうか。
 「自己責任」という言葉がはびこっています。ひきこもる青年を始め、ニート、ネット難民など多くの若者が先の見通しのないまま辛い思いですごしているのに、自己責任の名のもとに放っておくような。社会全体で“助けよう”という気運にはなっていないことを残念に思います。

和田 ミトリ