2008/09/01

生きづらさ”をめぐって

 一茶が生きた時代、一茶の世界、小さき者、弱き者への愛を思うとき、今の日本社会の生き辛さを改めて感じます。多くの人、殆んどの人がますます生き辛くなって来ていることを感じているのではないでしょうか。特に若い人は、自分たちがそうした訳ではないのに、いつの間にか、生き辛い世の中に放り出されているのを感じ、無力感を感じてしまうのではないか、と思います。生きる意味とか生きがい、生きる価値などを見出せないまま、漂ったり、よどんでいる感じを抱く若者たち…意識する人もしない人もいるでしょうが、意識している人は「大人、団塊の世代が今の社会を作った、僕たちのせいではない」と言ったりします。
 ニート、ひきこもる青年たちが、働く場所、そんなに辛い思いをしないで働ける場所は簡単に見つからない。「青年の思い」でもとりあげましたが、人間関係に慣れていない、“人が恐い”ということもありますが、世の中全体が余裕なく、そういう若者を受け入れたり支援する雰囲気ではないように感じます。
 高度経済成長、資本主義の影響が、それが、成長が殆ど止まった現在も大きく影響しているように思います。そしてたえまない発展の中に私たちはいる。文明の発展は続いていますが、どれだけの人がそれを享受しているでしょう。確かに非常に便利にはなりましたが、そのデメリットも大きい。
 若者も子供たちも全体に元気がなくなっているように思います。漠然とした不安やもの足りなさを感じ、生きている実感を感じられない…そんな中でいじめも起きているのでしょう。
 「悩む力」(姜尚中著 集英社新書)を読んでいて、その疑問に答えるような文に出会いました。「人が自然の摂理に即した暮らしをしているときは、有機的な輪廻のようなものの中で、生きるために必要なことをほぼ学んで、人生に満足して死ぬことができます。しかし、絶え間ない発展の途上に生きている人は、その時しか価値を持たない一時的なものしか学べず、けっして満足することなく死ぬことになります…」
 私流に解釈すると、昔は、生きるために、生活するために、子供なりに家の手伝いをしながら、体験的に徐々に生きる術を学んで行く、知識として学校で教えてもらうのではなく。季節、季節ごとに工夫をする生活や行事、子どもの手伝い(畑や家事、生活に必要なもの、遊び道具などの物を作るなど)も必要で、子供自身も家族のために役立っているのを感じる…。今は、社会に出た時、本当に役に立つのか分からないような高度な知識も覚えなければならない。(中学生以上になると、数学などついて行かれない生徒が多くなり、コンプレックスばかり大きくなる)でも本来、自分で体験して、(物を作ったり、野菜を育てたり、お祭りなどの行事に参加したり)達成感、役に立つ喜びなどと共に生きる術を学び、生きる実感を感じるものではないでしょうか、そして大人になるにつれ、難しいこともできるようになり、また、子供たちに伝えて行く役割もできる。
 自然、植物が生まれて(芽が出て)大きくなって、枯れていくように人間も自然の一部として、生まれ、死んでいく、そして何かに生まれ変る。それが自然の摂理であり、そこに生きる意味も感じられる。人と競争したり、焦ることはない生活があったでしょう。そこまで、戻ることは出来ませんが、少しでも意識して、競争しない、ゆったりと生きることの大切さを感じることはできるかもしれません。
 また、新聞でに掲載されてたのですが、「青少年の体験活動と自立に関する実態調査」によると、小学生ですが、自然体験が多い方が自己肯定感が高い傾向にある…とありました。
 青年になってしまうと、簡単ではないかもしれませんが、自然体験、キャンプなどが体験できれば、と思います。ただそういうことにも余り対人恐怖が強かったり、エネルギーが低い場合は、それをある程度回復する必要があります。仲間と語らいの中で話すことの抵抗を弱めたり、何らかの形で自己表現ができるようにと思ってます。(箱庭、パステル画などで表現が豊かになって行く青年もいます)

和田 ミトリ