2011/09/10

太陽と大地 (アメリカインディアンの生き方)

 そうしたことを考えていた時「『野生哲学』アメリカインディアンから学ぶ」(管哲次郎著、講談社現代新書)という本に出会いました。

 その中で最も印象的な言葉は――インディアンの部族では、物事を取り決める会議をする時、「何事も取り決めるにあたっても、我々の決定が以後7世代にわたって及ぼすことになる影響をよく考えなくてはならない」――というものです。

 私たちは何年先のことを考えているのでしょうか。何年先に生きる人々のことを考えているのでしょうか。

 そして、インディアンの人々にとって「人生の意味はゆるぎない。それは土地を共有するすべての生命のために祈ること、生きた土地を励ますこと」なのです。動物も植物も人間と同じように太陽と大地から生まれたものであり、“隣人”なのです。

 先月号で(人の)私たちの承認欲求は3つの段階、「親和的承認欲求」「集団的承認欲求」「一般的承認欲求」があると述べました。

 インディアンの部族の人々は、「一般的承認欲求」を満たすものとして、ゆるぎない共通の「人生の意味」を持っています。それは、家族もまわりの人も、皆同じものであり、お互いに皆、承認されている感覚を持ち、自己肯定感に満ちていると思われます。共に祈り行動することができます。その祈りとは、

 植物を育てることが祈り
動物を狩ることが祈り
太陽や月を見あげることが祈り
水を汲むことが祈り
風を感じることが祈り
なのです。

 著者は言っています。「生物も無生物も含めて、ある土地を織りなすすべてのものは、互いに関係をもち、働きかけあっている。その中で、ヒトの占める位置はごく小さく、ヒトに力はなく、ヒトはつねに助けを必要としている」。動物も植物も無生物もなければ、人間は生きていけない、私たちはそれを忘れてしまったのではないでしょうか。

 日本でも、かつては、山や森、そしてあらゆる自然に神が宿るという、自然信仰、マニミズムがありました。私も山に登りたい、森の中を歩きたい、川や海を船で渡りたい、花や木を育てたい、という憧れがあります。祖先の血が引きつがれているのでしょうか。でも、昔は、山を登るのも森の中にいるのも、川や海にいるのも、生活そのもの、生活の糧を得るものであり、私たちがそうした所で余暇を過ごしたい、と思うのとは違います。

 日本では精神疾患が増えている、なぜなのか。社会に出られない生き辛い青年たちが増えています。悩み苦しんでいる青年たち、関わっている青年たちも、親の会などで話される青年たちも、なかなか回復の方に向かわない、なぜなのか、どうしたらいいのか、いつも頭に浮かびます。(少しづつ人との交わりが増え、少しづつ働き出す青年もいますが)

 働いていても、やっとの思いで働いており、休日を楽しむ余裕のない青年もいます。仲間と交わることも(話をしたり、一緒に楽しむ)、一人で楽しむことも出来ない青年。或いはなかなか働くことができない、また人の役に立たない自分を責めて、精神的な苦しさから抜け出せない青年たち・・・なぜ?抽象的な言葉で言えば、私たちは、太陽と大地から離れてしまったからでしょうか。

 インドの詩人タゴールの詩に共感を覚えます。

『いのちの物語のつづれ織りが織られる

いのちの結び目のある糸をつかって

絶えずつながったりとぎれたりしながら、

枯葉は 土にまみれて消えるとき、

森のいのちに参加する』