2013/07/02

  7月の上旬の猛暑、下旬の豪雨(全国各地で、また都会でも川が氾濫)、自然の厳しさを感じます。森が破壊され減少しているのも影響しているかもしれません。

 でもまた、道草の家の窓からは草や木、笹竹が緑に茂り(手入れしてないのですが)、黒揚羽蝶が飛んでいるのが見えたり、蝉の鳴き声もして、自然の営みを感じます。自然が月々に訪れて来てくれます。先日はもう赤とんぼを見ました。

 私は幼少時代を田舎で過ごし、蝉やとんぼをつかまえたり、蛍をつかまえてカヤの中に放ったり、自然を身近に感じてすごしたので、自然の移り変わりを懐かしむ気持がありますが、都会で育った今の若者はどう感じるのでしょう。

 窓の外、緑の中の黒揚羽蝶を見つけたのは青年でした。

「『助けて』と言えない、孤立する30代」を読んで

 この本は衝撃的でした。数年前にNHKのクローズアップ現代でアパートでの孤独死(餓死)やホームレスの30代の男性について取り上げたのを見た記憶はありますが、深く考えずに過ぎていました。

 この本の中の「助けて!」と言えない30代の人たち――今ひきこもりの状態にある青年たち(様々な状態があり、外にでたり、仲間と一緒に過ごしたりする場合もありますが、働いていない、学校に行ってないなど社会参加をしてない)のことを考えないではいられませんでした。重なる部分、つながる部分があるように感じるのです。

 アパートで「助けて」と一言書いた手紙を横に置いて餓死していた39才の男性――なぜ、実際に「助けて」と言えなかったのか、NHK北九州支社のディレクターたちが、その疑問を解きたいと思い、北九州市でホームレスの支援活動をしているNPO法人の代表と一緒に行動しながら取材した記録です。

 路上で寝ているホームレスの人たちの中で30代と思える若い男性に「寝る所はある、仕事も一緒に探そう」と声をかけるのですが、一回では応じない。テレフォンカードと支援者の電話番号を書いたものと1000円を入れた封筒を渡す――でも後で電話して来るのはほんのわずかだそうです。

 でも支援の言葉に応じた男性にその気持を聞くと「こうなったのは自分のせいだ、自分の努力が足りないからだ。働いていないことは親にもいえない」と言います。

 「助けて」と言えない世代。競争に勝ち、努力すれば、いい会社にはいれ、いい結婚ができる」と言われ、それができないのは、努力が足りないからだ――という“自己責任”を問われていると感じてきた世代。「助けて」と言えないのは、「助けて」と言わせない社会があるからだ――と著者(ディレクター)は言います。

 でもまた、親にも友だちにも、それが言えない――のは親子の関係も友人関係も、”困っている時には助け合う”という関係ではなくなった――のでは、と思われ胸が重くなります。

 プライドもあるのでしょう。「働いていない」とは親には言えない、食べ物も寝る所もなくなっても――

弱さを認め合えない社会

 さて、ひきこもっている青年の場合、親とよく話す場合もありますが、あまり話さない、全然話さない、そして、外へ全く出ない、買い物などには出る、居場所に行く、仲間で話したり、遊んだりする――など、様々な状態があります。親に暴言を吐く、親に自分の不安を訴える――なども。

 ある週刊誌には「働かない、家を出ない、そして親のカネをあてにしているわが子へ」という題で、働かずに家にいる40代の子どもをどうしたらいいか――について、色々な人が意見を述べています。親子の共依存、甘え、という言葉もありますが、私は、彼らが”働かない、働けない”のは、10代での不登校、大学を出たとしても、それが精一杯で働けなかった青年たちは、その時点で、「自分は学校にも行けない、働くこともできない、”自己責任”を果たしていない人間なのだ」と、はっきり意識してはいないが、深く感じ、傷ついているのだと思います。

 30代でホームレスになった青年は、20代は実家から出て他の都市に出て就職し、ともかく働けた。でも解雇などで職と住居を失ったまま、家に戻れないでいる。

 私が関わったり、親の方から聞く青年(勿論、男女)たちは、他人がこわい、働く場での人間関係は一層こわい、という面が強く”甘えている””怠けている”のとは違うと思います。やはり、失敗したり、困った時にそのことを言えず、「助けて」と言えない。

 学校でも、友だちは競争相手であり、助け合う仲間ではなく、いじめにあっても親に言えなくて、我慢に我慢を重ねた結果、登校できなくなった時は、深い心の傷になっています。

 中・高校ぐらいで不登校になった青年(来所する青年に多い)は、その時点で「社会は厳しい、自己責任を問う所、自分は社会からは認められない人間になってしまった、将来のことは考えられない」と漠然とでも思ってしまうのではないでしょうか。ある青年は、高校で不登校になった時、教師から「高校位出ないでは、人生も終わりだ」と言われた、と言ってました。

 また、中学で不登校になり、高校受験をしようと思ったが、とても辛くてできなかった、という女性はその頃から「窓が少しでも開いていると、外から何か恐ろしいものがはいって来るようで窓はちょっとでも開けていられない、カーテンも閉めたままだ」と言います。「でも、道草の家はすぐ近くに家や道路がなく、窓を開けていても緑の木や草しかみえないので落ちつく」とも。

 親の会での話しにも「自室の窓は雨戸もカーテンも閉め切ったままだ」ということをよく聞きます。外へ出られない青年にも、時々出られる青年にも、また仲間とは一緒にいられるようになった青年にも、「自分は社会から認められない人間だ」というような絶望感。諦めのようなものを感じます。

 一旦、一般社会のレールからはずれると、自己責任という言葉のもとに、自己否定間が強くなり、前に進めない青年たち。弱さを認めない、少数派を認めない社会とは何なのでしょう。生きるとは何なのでしょう。生きる意味とは?・・大きな課題です。