2016/11/02

道草の家を訪れた青年たち


 ひきこもりの青年の居場所として16年活動を続けて来ましたが、ひきこもりの状況は様々です。そして巣立つ状況も或いは来なくなる状況も様々です。

(その前に10年近く、個人カウンセリングで、ひきこもりや不登校の青少年と関わって来ました)

 中学校で不登校になり、学校にも行けずひきこもっていて、少し落ちついて来て(或いはゲームにあきて)「仲間のいる所に行きたい」気持ちになり居場所を探して、道草の家に来るようになった場所が比較的多いです。或いは高校や大学を出た後、会社勤めをして、そこでの人間関係が辛くなって、うつになり、やめて、家で過ごしているうちに少し落ちついて来て、「外に出なければ」という思いで、その最初の“場“として道草の家を探して来所するようになった青年。又、発達障害があって(3スペルが―)、親と一緒に参加する場合もあります。

快復の過程も様々ですし、社会参加の糧も様々です。


道草の家では直接的な就労支援はしてはいません。青年たちは皆知的な能力や、言葉の表現力があるので、“集い”の中で或いは個別にカウンセリング的な内容も話し合いをして行く中で(お互いに共感し合って)自己肯定感、自信がつくと、「働こうか」という気持ちになるようです。又は高校をやり直そう―という気持ちになり、高校も行かれなかったのですが、青年の集いの中で、他の青年の話を聞いていて、尋ねれば答えて、参加している感じでした。そして、道草の家では、言葉で余り表現できない青年のために、或いは他の人に気を使って、自分の思いを自由に話せない青年のためにコラージュやパステル画を描く時間を設けています。パステル画は写生ではなくて自由にパステルで色をぬる――(写生でもそのままでなくてもいい)

ある少女は中学から不登校になり、少し落ちついた10代後半に道草の家に来ました。パステル画やコラージュを熱心にやっていましたが、最初は不気味な絵やコラージュが多かったのですが、だんだんそうでない絵やコラージュ等々をするようになりました。そして、2年位たった時、デザイン学校に行きたいので、その前に高校も卒業したい、その前に家の外を歩いたり、電車に乗る練習をするので、道草の家に来れなくなる、と言い、それを実行しました。そういう話をする前は、家にいる時「窓をあけるのもこわい」と言っていたのですが。

もう一つの例は、エネルギッシュな女性で、アイドル(?)のコンサートには行かれるのですが、人と交われず、家にいるのをおじいさんの訪問をしていた保健婦が見て「そういう人のために居場所があれば」とその前もカウンセラーとして、ひきこもりの青年や不登校の子を、その親ごさんのカウンセリングをしてみました。様々な青少年と関わり、難しさを感じることもありましたが、ただ毎号自分でカウンセリングルームに通うことが先月号では私の子ども時代のことを書き、友達とよく遊んだ、楽しかった、ということを書き、それが人間信頼の基になり、生きることには楽しいことがある、という感覚を育てた――ということを述べました。

「大人になってからはどうなのか」と(会報を読んだ方から)聞かれて、ふり返えれば、数えてみれば、7回くらい挫折し、方向転回をくり返したな――と思います。

最初は中学校の教師になりました。(教育実習の時、大ぜいの生徒の前でしゃべるのは、上がってしまって自分に向かない、と思いながらも)、いざ就職になると、会社にはいり、利益のために働くより、“人を育てる”方が意義があると思い、教師の道を選びました。でも、騒ぐ男の子をなだめるのは難しく、(冗談を言ったりできればいいのですが、それも出来ない)、自分には合わないと思い、長女が生まれたのを機に5年でやめました。

色々過程がありましたが、養護施設を出て中卒で働く青少年の世話をする施設の小さな研究室(4人)にいた時、ある調査をし(養護施設を出た少年と、家庭で育った青年の“社会化”をアンケートして)、その程度を比較し論文にする時に、担当の所を分析し論文にしたつもりでしたが、「論文になってない」と言われ、書きなおしても「ダメだ」と言われ、その研究室をやめることになった――これも大きな挫折でした。

また、青少年転職について行ったり、話し相手になる活動をしましたが、青年、少年にうまく声をかけられません。それで、“聴く”ことを上手になりたい、と思い、ちょうど東京いのちの電話でボランティアを募集していたので、「聴くことの勉強と実践ができる」と思い応募し、ボランティアになりました。1年位たった時、事務局長から「千葉にまだないので、千葉いのちの電話を開設する発起人になってほしい」と言われました。「自分はそういう柄ではない」と断りましたが、「発起人として呼びかけるだけで、大ぜい集まればリーダーシップをとる人が現れるから」と言われ承諾しました。

でも不安はありました。「よく発起人になったわね、不安じゃないの」という声も聞こえて来ました。それでも「たとい失敗しても、やらないで後悔するよりも、やってから後悔した方がいい」とも思いました。

「千葉いのちの電話」は割と順調に開設されましたが、結局、私が事務局の主事になり、やはり事務局にたずさわるボランティアからは、批判の声が出ました。それを見かねた、私に好意を持ってくださってた方が、「和田さん、『登校拒否児のボランティア講座』の募集が新聞に載っていた、この方が和田さんに合うんじゃない?」と言ってくれ、その講座を受けました。「東京メンタルヘルスアカディミィ」(TMA)という所で、ひき続き「カウンセラー養成講座」を受け、そこでカウンセラーとしてカウンセリングをしたのですが、多くが不登校やひきこもりの青少年とその親でした。

また、TMAにひきこもり、不登校の青少年の居場所が併設されており、そこに行っている青年たちが事務所にたむろしていて、「参加費が高くて思うように参加できない」というのを聞き、「そうだ、持ち家を人に貸しているけど、契約を延長しないで空けてもらえば、あそこを居場所にできる」と思いました。その頃、船橋市の勤労市民センターの部屋を借りて「こころのことを話し合う会」を開いていたので、その仲間が、引越しを手伝ってくれ(自宅からテーブル、いす、本棚を持って来ました)、そして、集いに参加してくれました。(0からではありません)

ちなみに、その頃、東京でカウンセリングルームを開いている男性のカウンセラーに、仲間と一緒にロールプレイでカウンセリングを学んでいたのですが、そのカウンセラーは「僕だったら、こわくて居場所など開けない」と言いました。でも「私は沢山失敗をして来たので、失敗が一つ増えるだけだ」と思いました。そして、16年がたちました、色々ありましたが、あっという間でした。

これから何年続けられるか―― 一人でも道草の家を必要とする青少年がいれば、また私のエネルギーが続けられれば続けたい。――と思っています。
(日常的には失敗のくり返し、常識がない、気がきかない、と言われます。でも完ぺきにやろうとしたら新しいことはできないのではないでしょうか。道草の家に来る青年は完ぺき主義だと自分でも言っている青年が多いです。それが、悩みの多くを占めているように思います。)