2017/04/01

働くとは?、社会生活とは?


 ひきこもる青年たち(彼、彼女)が社会へ出る(社会復帰)準備をする――という意味で居場所を開いて、9月で17年になります。

社会に出るとは?その社会とは?社会生活とは?

考えてみる必要があると思います。

単純に“働く”ことだけではないと思います。

不登校からひきこもって、少し落ちついたので道草の家に来たという10代の少年少女は、しばらく道草の家で過ごした後、高校(通信高校)に通い、その後、専門学校や大学に行きたい――という場合が多いのですが、20代30代の青年は“働いていない”ことをとてもひけ目に感じています。“収入がない”ことを社会、世間の人はどう思うだろう“怠けてる”と思っているのではないか、と思い悩みます。それは怒りになることもあり、それを電話で訴えて来たりします。でもパソコンでできる仕事を見つけて、収入を得られるようになったのでしょう、訴えの電話がなくなりました。

また道草の家に来る青年(彼、彼女)は真面目で(真面目すぎる)、働いていないことを責めます。そして、精神的に非常に落ちこみ身体の調子も悪くなったりします。

頑張って~職場に出て行って、身体にも影響して来て、働くのをやめた、という場合もあり、私なんかは「そう頑張らなくていいのに」と思いますが。(私はそんなに頑張って生きて来たという感覚はなく、自分に合わないな、と思って、方向転回して来ました。)

また、働くほどのエネルギーがなく、家にいる自分を責めて心身の調子が悪くなり、寝込んでしまう自分がたまらなく、でも「今日は動けそうだと思って道草の家に来た」という青年が久しぶりに訪れました。

涙ぐましい感じがします。そういう話をするのを聞いて、実際涙がにじみます。そして、私や他の青年と話をして、少し楽になったような表情で帰る姿を見て、私もほっとします。 

(もっと早く来てくれたなら良かったのに・・・と思います。道草の家がそういう雰囲気なのかな、彼女たちが真面目すぎるいのかな――と思いながら。)

一方で「社会へ出る」――その社会とは、社会生活とは一体何だろう、と疑問も感じます。

 

働くことだけが社会生活でしょうか。

私たちは働いて、お金をもらって、そのお金を使って日常生活を送っています。働くことは“生産”につながる、“生産”ということに、私たちは余りにも価値を置きすぎるように感じます。お金を使って生活をする、どういう生活?

男性が働くことにのみ価値を置き疲れるまで働き、日常生活、個人的生活については余り考えず、妻まかせ、家ではお酒を飲んで寝るだけ――ということが結構多いのではないでしょうか。

消費生活も大事ではないでしょうか。半分は消費生活、それを有意義に使う。(人によりますが、母子家庭などで朝晩働かなければならない人もいますが。)

さて、働いていない、働けない青年は「日常生活を楽しんではいけないのだ」という思いで(漠然とでしょうが)ひきこもって、自室から出ない生活を送っているのでは、と思います、

日本人は「真面目に働く」ということに重点を置いた来たように思います。父親に「働かざる者は食うべからず」と言われた、と言った青年(中年になっていました)もいます。 

道草の家では、生活には、生きることには“楽しいこともある”ということを知ってもらうために、コラージュやパステル画、そして画廊巡りやハイキング、紅葉狩りなどを行っています。

日常生活を楽しむことが、主体性を高めたり、お互いの信頼感を作ったり、そして、自己肯定感を高めたりすることにつながると思います。その中で“働く”意欲も出ると思います。

親の会などで「おこずかいを上げない方がいいのではないか、ほしいものを買うために働き出すと思うから」という言葉も出ます。それは無理ではないかと思います。

日常生活、消費生活とも言われますが、それによって、生きることの楽しさ、面白さ、感動などを味わうことが、エネルギーを高めて、働くという社会生活につながると思います。