2018/10/01

いろいろの世界


9月はロゴセラピーの講座があり(2日間)、豊かな充実した時間を過ごしました。でも集中することはかなりの疲れを感じます。

そして、普段の生活に戻ると、悩める青年と話し合う活動が中心となります。時々は青年同士が活発に話し合うこともありますが、いつも、という訳ではありません。活動日は週2回ですし、毎回来所する訳でもない青年も多いので、その間をどう過ごしていたか、を聞くのが話をするきっかけになることが多いです。

はっきりした悩みを抱えている場合は、自分から話し出しますが、“集い”に慣れていない場合はきっかけが必要なようです。

もう一つは高齢者向けの、筋トレをしてくれるデイサービスに行く時間です。

去年、階段を踏み外して、左足首を打撲してから通っています。

週2回の午前中、そこでは時間がゆっくり過ぎます。スタッフの指示で、足のマッサージをしてもらう他は簡単な筋トレの機械を、開いている時一つ一つ順番にやっていく…。そうした、毎週決まったことをする時間の間をどう過ごすか、どう過ごしたら充実感を感じるか、やはり考えてしまいます。

年齢的には、退職して、好きなこと(趣味的なこと)をしながらゆっくり過ごす――という年齢ですが、まだ充実感を覚える“何か”を求める事が続いています。

若い頃から、“充実感”を感じながら生きたい、という思いがありました。

でもまた、テレビを見ながらのんびり過ごすのもいいかな、と思います。

そして最近は「私は“心”の問題に関心を持っている、それを追究したいんだ」と思うようになりました。そして、ロゴセラピーに出合い、“精神”の問題、“生きる”ことそのものを考えたい、と思うようになりました。

ロゴセラピーは“深く、豊か”ですので、理解し、身につけたいと思いますが、なかなか難しいです。一つ言えることは、

 

「人間は『心身体の上に“精神次元”がある』ということを基本にしています。そして『自分の“役割”がある』その役割は上の方から呼びかけてくる、それを捉えて実行する責任がある」

という言葉に惹かれました。

 

――生きることの意味、価値――

今まで学んだ心理療法の多くは、「自分は何を求めているか」、そして「自分の特性は何か」を追求し、「自分に合った生き方をしよう」というものでした。“人の役に立ちたい”と思うことは、それに合せることであり、自分を偽ることになる――というものでした。

30数年前になりますが、ある青年と会う約束をしながら何回か、心のことを話し合ったことがありました。その時「でも、人の役に立ちたいよね」と帰り際に2人で密かに話したことを思い出します。その後、間もなく彼の友達から、「彼は家で亡くなった」という意味深長な言葉を聞きました。

「役に立ちたい」という気持ちを大事にし、もっと話し合えればよかった、と思います。