2008/08/01

相互承認

 20代から30代にかけての青年による無差別殺人事件があいついで起きています。背景は、それぞれ違う面、似た面があるかと思いますが、「誰でもよかった」「自分は誰にも必要とされない」「親は分かってくれない」「親は相談にのってくれない」「死にたいけど一人では死ねない」などの言葉が気になります。

 共通するのは話をする仲間、悩みを話す友だちがいない、ということかと思います。でも「世間を騒がせたかった」「親を困らせたかった」という言葉は、本当は親とのつながりを求め、社会とのつながりを求めていた、でも得られない、分かってほしいのに分かってくれない、そういう鬱積がたまって爆発したのではないかと思います。現在の職場の体制は、特に派遣という形は、人を育てる、大事にするのではなく、使い捨て、であり、様々な性格の青年を受け入れるものではなく、よほど外交的な性格でないと疎外感、孤立感、そして将来の不安を感じさせるものだとおもいます。

 でもまた、青年たちは一方的に相手に求めているように感じます。勿論、それが問題であり、青年たちの責任だと言ってるのではないのですが。「誰も自分を必要としてくれない」「誰も分かってくれない」などと相手に求めている。必要とされるには自分も相手を必要としなければ成り立たないし、自分を分かってほしいなら、自分も相手も分かろうとし、又、どういうところが分かってほしいのか、など表現しなければならないと思います。そして全面的に分かってもらうことは不可能だという自覚も必要だと思います。

 一方的に求めることが多い、それは育ち方にようると思います。「相互承認」という言葉を「悩む力」(姜尚中著、集英社新書)の中で読んで「これだ」と思いました。まず、親は子供を認める、そして子供はそういう親を認める、という親子関係が基準になるのに、そういう相互の関係が希薄です。勉強ができなくても、行動が遅くても、その子の個性としてありのままを認められたら!学校でも、大人しい子、活発でない子は認められない雰囲気もあり、(競争主義、成績中心で)お互いに認め合う関係を身につけないまま育った、と言えるでしょう。ゆったりしたおおらかな雰囲気の中でお互いに違いを認めながら、完全でなくても認め合う力が育っていればと思いますが、認めてほしい気持ちが満たされないまま、求める気持ちが大きくなったのではと思います。

 また「悩む力」の中で「私は、自我というものは他者との『相互承認』の産物だと言いたいです。そしてもっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要がある」と言っています。やはり自我も一人では育たない、お互いに自分を出し向き合い、認め合う中で育つのでしょう。

 職場でも他の場所でも、「自分も役に立ちたい」「教えてもらいたい」という積極性があれば、積極的に関わってくれて、お互いに「必要だ」という感覚になるのでは、と思います。

 もう一つ、20代から30代の青年が育った時代はちょうどファミコンがはやっていて、ゲームの世界で過ごすことが多かった。生身の人間との関係ではなく、左脳ばかりを使っては想像力、情緒も育たない。生身の人間の中で喜びや悲しみなどを感じる体験もなく、相手がどんな気持ちかが想像できないまま育った、という面もあると思います。無差別殺人も、それがどういうことなのか想像できないまま、受け身(被害者)の怒りのままに走ってしまった、とういことがあると思います。

和田 ミトリ