2017/02/01

「この世界の片隅で」

 先月「『この世界の片すみで』というアニメ映画がとても人気がある」と言っているテレビ番組を見ました。それは、終戦前後と今の人々(庶民)は、同じように「『この世界の片すみで』つつまして生きている」という感覚で生きている、と言うのです。
「この世界の片すみで」というアニメ映画を見ていないので十分なことは言えませんが、「そうなのかな」と疑問を感じます。
私は8才終戦を迎えましたので、その頃の感覚も覚えていますし、現在は“ひきこもり”の問題に取りくんでいます。
9才まで福島県の田舎町で過ごしていましたが、そこでは町中の人の名前や職業を知っていて、交流がありました。
9才で名古屋に来ましたが、小学校の頃は、お寺に間借りしていてお風呂はそこでは入れず、親が前住んでいた地区の知人の家にお風呂をもらいに行きました。
覚えているのは、父と二人で(母は親の看病で実家に帰っていたので)、お風呂もらいに行った光景です。
割と巾の広い道路、下り坂を歩いていた時、正面の夜空に北斗七星が見えました。「ひしゃくの柄の先が北極星、北だ」というようなことを教えてくれました。地域(近所)の交流がありました。
今は千葉市の住宅街に住んでいるのですが、隣の人と道路をはさんだ向い側の民生委員の顔しか知りません。
そして、現在増え続けている、ひきこもる青年と親の方たちのことを考えると、地域近所の人々と共に「この世界の片すみで」生きているという感覚は持てない人が多いだろうと思います。
“働けない、働いていない”ということに「自分はダメな人間、地域社会の人々からは認められない人間だ」という思いが強いですし、親の方たちも「近所の人にも親戚の人にも言えない」と言っています。「近所の人に知られたくない、でも近くの家で若い男性がいつも家にいるようだし、昼間出かけたりする姿が見える」と言う方もいます。
ところで「この世界の片すみで」という感覚をいくらか持てる場があります。
去年7月、外の階段を踏み外して、左足首の当たりを打撲して、整形外科にかかり、だいぶ腫れもひき、杖をついてゆっくり歩けるようになりましたが、整形外科医は「これ以上よくならない、年齢的にも諦めた方がいい」と言います。