(勝田先生はドイツではロゴセラピーの研究所を開き、ロゴセラピーゼミナールの講師として日本に年3回ほど来られています。このたび、暖かい文を寄せて下さいました)
道草の家からのお便りをありがとうございました。
状況は深刻なのですが、あなたが問題を抱えた青年たちを遠くから暖かく見守っている様子が、いつもほのぼのと感じられます。
いきり立って解決策を求めないあなたとの対話が傷ついた青年たちには必要なのでしょう。
今回のお話では、敢えてこれをフランクルの観点に結び付けて考えると、創造価値と体験価値とのバランスの問題かとも思いました。
(ロゴセラピーでは、人間の3つの価値をもって生きていると考えて、その二つ
・創造価値…物を造ったり、仕事として事業をやったり
・体験価値…本を読んだり、音楽を聴いたり自然を味わったり(和田記))
これは、あなたもご指摘されているように、ひきこもりの青年たちの悩みだけではないでしょう。
朝から晩まで仕事に追われて、休日には疲れ果て、挙句の果ては自分が何のために働いているのかも分からなくなる空虚さ。
毎日が創造価値の実現だけで過ぎて行き、体験価値を忘れてしまうと、人生の豊かさというものも分からなくなってしまう、と。
強制収容所の人たちが素晴らしい夕焼けを眺める光景。
「世界は、本当はこんなにも美しくなれるんだ(Die Welt
könnte so schöne sein...)」(中島さんが正確に引用してくださったように)
ぼろを身にまとった被収容者が疲れ切ったまなざしを西の空に向けて、見事な夕焼けの情景を見ます。
世界は今、「美しい」どころか醜く悲惨なのです。でも、「それでも」人間には自分のみじめな姿を一瞬忘れて「こんなに美しいものがこの世の中にある」、「いつかは自分たちの人生もこんなに美しく輝く時が来るかもしれない」と憧憬する能力があることをフランクルは描いています。
ましてや、自由の身にある私たちは、毎日(自分が望みさえすれば)魂を揺さぶるような美しい自然、深い味わいのある会話、思いがけない本や人との出逢いなどを通して、この世界が何とたくさんの素晴らしい価値に満ちていているのかと、体験できるはずなのです。
そういう体験の豊かさの貧しい生活の中では(どんなに物質的に豊かでも)、精神次元の中のエネルギーがどんどん減って行くでしょう。
和田さんの道草の家は、砂漠のような気持ちになった青年たちが時折、美味しい水を求めてやってくるオアシスのようなものなのかもしれません。
お元気でお過ごしください。