2017/08/01

ロゴセラピー


 道草の家に参加する(メールや電話ででも)青年たちの多くは苦悩の中にいると思います。

6月号では“自分のエゴイズム”に悩む青年の言葉に、7月号では“寂しく苦しい日々を過ごした。生き方を変えなければ”という言葉に苦悩の姿を感じます。感性が鋭敏で真面目で深く考えるからでしょう。

こうした苦悩は今までの心理療法では、解決しないと思います。具体的な問題があって、の悩みでは無いし、そこから離れれば苦悩が薄らぐということではないように思います。きっとロゴセラピーの関りによって苦悩から抜け出せるのでは、そしてより深い生き方が出来るのでは、と思います。でも私自身はまだまだロゴセラピーを十分に身につけていません。1年に3回(1回2日づつ)、3年で一通り学べるのですが、私はもう1度1回から学ぼうと思っています。

でも、今の私なりの拙い考え方で、考えてみたいと思います。

ロゴセラピーの基本概念として、人間は“生きる意味”を求める、でもそれは「自分は何をしたら意味を感じるか」と内面に問いかけるのではなく、人生が、他の何かが自分に問いかけるものを感じとって、それを実行する――のです。

自分を見つめて反省したり、自分を責めたりするのではなく、そういう自分から抜け出すことによって他の人のために意味のあることが出来る、脱自己集中、脱反省、そして自己超越とも言われます。

特にひきこもる青年は真面目で完璧を求めがちです。「自分はダメな人間だ。もっと頑張らないと」と思いがち、そして疲れ果ててしまいます。うつにもなります。

先月号(7月)に載せた「エゴイズム」という小文。“何もなせなかった”“常に他者の支援が必要だから”“どこまでもエゴイズムでまだ生き続けている自分”という言葉。彼は、ひとの支援を受けているばかりで、人に何も与えてない、自分はエゴイズムだと自分を責めています。でもそこには“他の人のために行うことが意味あることだ”と無意識にも感じているのだろうと思います。

“意味ある事”は、特に大きなことではなく、「その時、その時、瞬間、瞬間に、自分がそれをやることは、自分のためではなく、他の人他の何かに役に立つ。意味がある。」と感じた時、それを実行する責任がある――とロゴセラピーでは言っています。言いかえれば「一般的な人生の意味ではなく、ある特定の瞬間における個人の具体的な意味」

そして、「人生においては誰もが自分にしか出来ない仕事、その人に成就されることを待っている具体的な使命を持っている」

一言で言うと「すべての人間は人生から問われているのです。そして人間は自分自身の人生に責任を持つことによってのみ人生に答えることができるのです」

なかなか難しい言葉です。

でも昨日、勇気を出したことがあります。スーパーに買物に行き、その帰り、リュックをしょい、両手に買物袋を下げながら右手で杖をついて歩いていた時、「荷物を持ちましょう」と言ってくれた男性を歩きました。(今まで何人かの人に荷物を持ってもらいました。)いつもは知らない人に自分から話しかけることはないのですが、怪我した経緯とか、30年前に一時住んでいたが、両親と同居のため船橋に住み、また10年位前からこちらに住んでいる――など話しました。

その男性も前の検見川を知っていて、「マンションが増えましたね。自分もマンションに住んでるのですが」と話されました。

ほっとしたひと時でした。