2017/09/01

“戦争”を考える


 8月はやはり“戦争”を考える月でした。

終戦の日(8月15日)からテレビでは、戦争の様々な場面を映していました。

広島の原爆――私の子どもが小学校低学年の時まで広島県に住んでいたので、割と身近に感じていました。マンガ“はだしのゲン”が出版されると、買って子どもと共に読み、映画化されると、子どもたちと見に行きました。

でも長崎の原爆については、そんなに深く考えませんでしたが、テレビで取り上げられ、原爆に合い放射能を浴びた上に、周りの人々から差別された、ということはショックでした。“浦上町”という町もあって、そこは被差別部落であり原爆を浴びたことと二重の差別を受けた、と述べられていました。

そして戦災孤児、浮浪児のことも放映されていました。
  私は8才(小2)の時終戦で、9才(小3)の時、名古屋の叔母夫婦の養女になったのですが、11才(小5)の時、実家の祖父が亡くなり、実家に帰る時夜行列車に乗るため名古屋駅に行ったのですが、コンコースに浮浪児が寝ころんでいるのを見ました。終戦後3年半たっていました。

また“インパール作戦”のことも放映されました。“インパール”という言葉は覚えていましたが、その実体は知りませんでした。敵に殺されるのが分かっていても、“前進前進”というものでした。

戦争中は私は幼児でしたが、人々は戦争をどう思っていたか大体のことは分かります。

国のため、天皇のために出征する兵士になる、――その通知(赤紙)が来て、みんなで見送る時、「ばんざい、ばんざい」と言い、私も「ばんざい」と言って両手を上げました。

また、田舎町だったので焼夷弾は落ちませんでしたが、工場地帯がある郡山に向かう通り道で、B29が来る警戒警報がしょっ中なりました。夜も、防空頭巾を枕元に置き、服を着たまま寝ました。やがて空襲警報が鳴ると急いで庭に掘ってある防空壕に入りました。

B29が低く飛び、乗っている米兵の姿が見えることもありました。そして、人を見かけると機関銃で撃つこともありました。父がちょっと離れた村の学校の教師をしていたのですが、空襲警報が鳴り、生徒はいなかった時で、教師2人で防空壕に入ろうと走っていた時、父が先に防空壕に飛び込んだのですが、後にいた教師は機関銃で撃たれました。

戦争になると、敵は同じ人間ではなく、殺さなければならない生き物になるのですね。

終戦から72年、戦争の悲惨さを実感出来る人は少なくなりました。今の首相なども戦後生まれ、悲惨さを少しでも分かる人は戦争に方に少しでも向かう施策を作らないはずです。

私が通っている、高齢者向けの筋肉トレーニングをしている所でいつもは日常生活の穏やかな話なのですが、皆終戦前後の体験をしており、その話題になりました。大陸から引き上げてくる船の中で、子供が死ぬとその子供をポイポイ海に投げる、――という話が出ました。