2017/11/01

好奇心


”ふるさと”のことを書きながら、田舎で過ごした幼児の頃のころを思い出しました。

 町中(まちなか)をちょっと離れた所に桑畑があり、一人で桑の実(いちごのようでもっと甘い)を食べながら、町の向こうの山脈を見ながら「あそこの山の向こうはどうなっているのだろう、石川町と同じような町があるのだろうか」と思いました。

 また母と2人で歩いていた時、町はずれにトンネルがありました。トンネルを覗き込みながら「トンネルの向こうは何があるのだろう」「石川町と同じような町があるのだろうか」と思ったことも思い出します。反対側、南側には、鉄道の一駅向こうに親戚があり、同じ年のいとこもいて、行き来していたので、石川町と同じような、町や村があることは知っていたのに。

 そして戦争中でしたから、親戚が大勢疎開して来ていました。小学校1、2年の頃、名古屋から叔母夫婦が疎開して来て、離れに住んでいました。母はそうした親戚の世話や、もともと大所帯で私たち子供と一緒に過ごす時間は殆どなく、その叔母夫婦が住んでいる離れによく行って宿題を見てもらったり、一緒に寝ることもありました。

 そして終戦(私が小学2年生)、叔母夫婦は名古屋に戻りました。私は「名古屋に行きたい」と言ったりしましたが、”名古屋”に興味があっただけで、叔母夫婦の子供になりたかった訳ではないのですが「名古屋の叔母さんの子供になるのよ」と母に言われ「私に相談しないで勝手に決めた」と思いながらも「うん」と言ってしまいました。

 人生は変わりました。姉は高校を卒業後、家事を手伝ったりしたあと、白河の味噌醤油醸造の家に嫁ぎました。兄は高校を卒業後、家業を継ぎました。

 私は名古屋に行き、人生が変わりました。

 その頃、まだ「女子は4年制の大学に行くとお嫁に行かれない」と言われていましたが、私は戦後の”男女平等”の思想も持っていて4年制の大学に入りました。

 卒業後は中学の教師を5年やり、長女が生まれたのを機に辞めました。3年後双子の息子が生まれ、社宅住まいが長くなると何か息苦しく、外に出たいと思いました。仕事だと子供が病気になった時、迷惑かをかけるので気軽に休めない、でも学生だとそれが出来ると思い、私立の工業大学建築科に編入学しました。十代位から間取りを変えるのが好きで、建築に興味があったのです。

 でも、都市問題、農村関連を研究している助教授のゼミに参加して、”社会問題”に目覚めてしまいました。そして教育社会学修士課程の方に進み、その後社会福祉の施設で仕事(活動)をしました。そんな中で心の問題の大切さを知り、カウンセリングを学び、”ひきこもり”のことを知って、居場所を開きました。

 開いてから17年。何かあっという間に過ぎたように思います。細々とでも続けられるだけ続けようと思いますが、後何年?考えないでおきましょう。

 私は言動では活発ではないのですが、好奇心がエネルギーになったのだと、思います。